健介は私の部屋に2泊して、日曜の午後に帰っていった。 土曜日は一日、この部屋で他愛ないことを話したり、近所のスーパーに買い物へ行ったりと、健介との時間をのんびりと過ごしていた。 いつもと大差ない週末だったけれど、今の私にとっては、健介の存在が心底ありがたかった。
健介を見送り、一人になったこの部屋で、私はコーヒーを飲んでいた。 テーブルの上の灰皿は、健介の残した煙草の吸い殻でいっぱいになっている。 ベッドに横たわり、今までのことをぼんやりと思い返してみる。
誰かイイ人・・・結婚したい・・・。 真奈美がいつも口にした言葉。 まだ22の私にとって、結婚なんて遥か遠い未来のことに思えたけれど、健介からのプロポーズまがいの言葉・・・。
高校を卒業して、親の進学の勧めを断り、すぐに就職して貯金をはじめ、一人暮しの夢を叶えた。 高校時代から続いていた彼氏と別れ、健介と付き合い始めた。 この先には、何があるんだろう・・・。 私には、何の技術もない。 学歴もない。
このまま今の会社で、今と変わらぬ仕事を続けていくしかないのか・・・。 そして、いずれ結婚して主婦になる。 母のように、家族のために家事をこなし、子供の成長だけを楽しみに生きていく。
「つまらない・・・くだらない・・・。」
私は、ぼんやりとつぶやいていた。
だけど、なんの取り柄もない私が、この先選択できる未来なんて限られている。 今の仕事だって、いつまでもぼんやり続けていたって、これ以上何も望めない気がする。
女一人がなんとか生活していけるだけの給料を貰えるけれど、あんな仕事、誰にだってできる事務だ。
就職して3年、私が残したものは、この部屋と健介との関係・・・そして・・・。 クローゼットに収められている洋服、いくつかのブランド物のバッグ。
・・・部屋の片隅に置かれた、カラーボックスに目を向けた。 100円ショップで買った、プラスティックのカゴがある。 あのカゴに入った、たくさんの化粧品・・・。
いろんな物が欲しくて、残業もがんばったし、生活費も切り詰めた。 それでも、私が形にできるものなんて、こんなに限られている。 きっと、これからもそうだろう。
そんな自分に、これからどんな未来が待ち受けるというのか。 目に見えてしまうような気がする。 ・・・・こんなとき女は、資格を取りたがったり、結婚をしたがったりするのか・・・。
まだ22歳。
自分のことをそんな風に思っていた。 だけど、このまま25歳、30歳になろうが、自分にできることなんて大差ないんだろう。 多少、電卓を叩くのが早くなって、電話の応対がうまくなって・・・。
・・・くだらない・・・。 会社の、やたらと電卓を叩くのが早い40代の事務員を思い出していた。
結婚・・・。 今まで、何の肩書きも取り柄もなかった私に、妻・母という世間に通用する肩書きが付くんだ。
ふと、真奈美のことを思う。
あぁ・・・そうか・・・。 今までの真奈美、あれは、数年後の私だ。
真奈美は、短大を出てから今の会社に勤めている。 私と似た仕事を、1年長くやっている。 何も変わらない毎日の中、年々、年齢だけを重ねていく。 限られた行動範囲で右往左往したって、生活も知り合う人間もたかが知れている。 何のドラマもない生活から抜け出すには、結婚・・もしくは転職。 私や真奈美が転職するといっても、またほかの中小企業の事務くらいだろう。 だから、結婚なんだ。
だけど、その真奈美には好きな男ができた。 金曜、久々にゆっくり話した真奈美は、とてもよく笑った。 見たことのない、いろんな表情を見せた。 彼女は、今までの日常から抜け出す何かを、彼に恋をすることで手に入れたのかもしれない。
それに引き換え、何の変わりもなく毎日を過ごす私。 そして、これからも目に見えた毎日を過ごしていくだろう私。 私も、「真奈美にとっての彼」のような存在が欲しかったのかもしれない。 だから、嫉妬したんだ。 新しいオモチャを買い与えられた友達を、羨む子供。 なんだか悔しくて、意地悪したくなる。
私は、そのままうつ伏せになり、枕に顔を押し付けた。 健介の煙草の匂いに包まれる。
誰もが、こんな日常を生きているはずだ。 そして、ふとしたきっかけで思わぬときめきを見つけたり、幸せを見付けたりする。
今の私もそうだ。 こうして、健介の匂いに包まれているときは、なんとなく幸せを感じる。 だけど、こんな幸せも、健介と会えた瞬間に感じるときめきも、すべて、私にとっては慣れ親しんだものになっている。
起きあがり、テーブルの灰皿に手を伸ばした。 その中で一番長い吸い殻を手に取り、咥えて火を付けてみた。 久し振りに煙草を口にした。 就職して間もない頃は、よく吸っていたけれど、なんとなくやめていた。 深く吸い込み、煙を吐き出す。 懐かしい味がする。
普段は煙草を吸わない私の、日常に対するわずかな抵抗のつもりだった。 いつもと変わらぬ部屋に、白い煙がひとすじ。 それはやがて、ふんわりと広がり、静かに消えていく。 今の毎日の中で、私が起こせる反乱なんて、この程度のものなのか・・・。 今までの生活、手に入れたもの、安定、ささやかな幸せ・・・それを手放してまで欲しいものなんて、私にはないのかもしれない。 薬指の指輪に、視線を移す。
・・・結婚するのか、私。
「いずれは・・・ね・・・。」
健介が言ったのと同じセリフを、小さな声でつぶやいてみた。 「いずれは」っていつのことだろう。 それが今だろうが、何年先だろうが、いつ結婚しようと今の私には同じような気がした。
真奈美の屈託ない笑顔が、フラッシュバックする。
その笑顔が、今の自分を見下しているように思えた。 もちろん、真奈美にそんなつもりはないことは、よくわかっている。 真奈美だって、私とそんなに変わらない、普通の毎日を過ごす女だ。 それなりに明るくて、マジメで、優しい・・・普通の女。 それでも真奈美は、今の私が持っていない何かを手にいれた。
・・・私には、健介がいる。 健介がくれた、指輪がある。 健介と過ごす時間がある・・・・。
でも、真奈美の持っているものは、そのどれとも違う、非日常的なものに思えて仕方なかった。
真奈美には何の罪もない。 もちろん、健介にだって。
だけど、罪なく微笑む真奈美の笑顔は、今の私には痛かった。 健介の優しさも、いつものように愛情を感じるSEXも、ここで過ごした時間も、私の中のこの痛みを完全に消し去ることはできなかった。
いつもと変わらぬ日常、この部屋の中で、今までに感じたことのないこの胸の痛みだけは、いつもと違っている気がした。
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