「302号室ね。覚えとこ。」 石場は私の部屋の前でそう言った。 「どうぞ・・・。」 部屋の鍵を開け、先に石場を通す。 「おじゃましまーす。」
なぜか、こういう展開になっていた。 気が付けば私は、石場を部屋に誘い、お湯を沸かしている。
「適当に座ってください。」 「もう座ってる。」 見ると、テーブルの前に座って、笑っている石場がいた。 私は、その向かい側に座って言った。 「思惑通りに進んだと思ってるでしょ?」 「イヤな言い方するなぁ・・・。でもまさか、部屋に入れてくれるとまでは、思わなかったよ。どこかでゆっくり話せればいいなぁとは思ったけどね。」 石場はきょろきょろしている。 「狭い部屋でしょ?」 「OLさんの一人暮しって、こういうもんでしょ?」 そう言って石場は、また、私をじっと見る。 「なんですか?」 「見ちゃだめ?」 「だめ?って・・・聞かれても・・・。」 私は、思わず目をそらし、手元に視線を落とす。 「・・・それ、きれいな指輪だね。婚約指輪でしょ?」 私は、その存在を忘れかけていたことに気付いた。 「あ・・・これ?」 私が、左手を軽くあげると、石場は大きくうなずく。 「婚約指輪なのかなぁ?・・・よくわからないの。」 私の言葉に、石場が眉をひそめる。 「どうして?結婚前提に付き合ってる彼がいるって言ってたじゃない。」 「んー。そういう意味とは、ちょっと違うかも。彼は、《いずれは》としか言わないしね。」 「・・・悠ちゃん、彼とは結婚しないと思うよ。」 「え?」 石場の言葉に、思わず絶句した。 石場が身を乗り出して、私に顔を近づける。 「俺にはわかるんだよ。」 石場の手のひらが、私の右の頬に触れた。
ぴーーーー。
そのとき、間抜けな音が部屋に響く。 やかんのお湯が沸いた音。
私は急いで立ち上がって、コンロの火を止めた。
右の頬が焼けるように熱い。 石場に触れられたところだけが、溶けそうな気がした。
来客用のソーサーとカップ、そして自分のマグカップを棚から下ろす。 スプーンでインスタントコーヒーをすくおうとするが、手が震えてうまくいかない。 私は、ひどく動揺していた。 男とこんなシチュエーションになったのなんて、はじめてじゃないのに。
「俺、お砂糖もミルクもいらないから。」 石場の平然とした声に、動揺している自分が恥ずかしくなって、私は少し落ち着きを取り戻した。 自分のコーヒーに砂糖とミルクを入れ、二つのカップを両手に持って、石場の元へ戻った。 「悠ちゃん、ありがと。」 「それ飲んだら、帰るんでしょ?」 私は、石場の向かい側に座る。 「悠ちゃんと、楽しい語らいのひとときを過ごしたらね。」 「何を話したいっていうのよ。さっき、みんなで散々しゃべったじゃないの。」 「・・・二人でしかできない話がしたい。」 石場がまた、まっすぐに私を見つめた。 「二人でしかできない話っていったって・・・。」 目をそらすように、私はうつむく。 「私たち、今日会ったばかりで、お互いのことなんてほとんど知らないじゃない。それで何か話すっていっても、話題なんてないわよ・・・。」 「知らないから、俺にいろいろ教えてよ。悠ちゃんのこと。」 石場が、コーヒーに口をつける。
この人は今、何を考えてるんだろう・・・。 そして、私は今、何を・・・。 このあと、私たちはどうなるんだろう・・・。
今日初めて会ったけれど、そんな感覚ではなかった。 私はずっと、毎日顔を会わせる真奈美の淡い表情の向こうに、この男の存在を感じていた。 そして今、手を伸ばせば届く距離に、彼はいる。
「真奈美はちゃんと送っていったの?」 身体中に広がる、妙なざわめきを遮るように、私は話し始めた。 「もちろん。家の前までちゃんとタクシーで送り届けたよ。そのあとで、ここに来たんだから。」 「ずっと真奈美は、あなたに会いたいって言ってたのよ。何度も電話がかかってきたでしょう?」 「まぁね・・・。」 石場は、背後のクッションにもたれこんだ。 「週末がダメなら、平日にデートすればいいんじゃない?ってさっき話してたの。約束、したんでしょ?」 私は、手元のマグカップをくるくる回しながら話している。 「そのマグカップ、彼用に色違いのがあったりするんでしょ?」 「へ?」 ・・・確かに、私のピンクのマグカップとお揃いになっている、グリーンのチェック柄のカップが、この部屋には用意されている。 もちろん、健介が使うためのものだ。 「彼は、この部屋によく来るの?」 「毎週、週末にはここで会ってるのよ。たまに向こうの部屋に行くこともあるけど、この頃はほとんどこっちね。」 私の言葉に、石場がにやっと笑う。 「仲いいんだね。・・・でも、悠ちゃんは、彼とは結婚しないよ。」 石場は、またさっきのセリフを繰り返した。 「なっ・・・何言ってるのよ!なんであんたにそんなことが分かるのよ。私たち、うまくいってるわ。いずれ結婚するのよ!」 「いずれって、いつだよ?」 「・・・っ・・・!」 私は、絶句する。
いずれって、いつ?
何度も自分に問い掛けた言葉だった。 いつだって、同じことじゃない・・って、ずっと思ってた。
「私のことなんて、どうだっていいじゃない。さっき、真奈美の話をしてたのよ?それがどうして、こんな話になるのよ。」 私は、石場に強い口調で言った。 石場の顔が、険しくなる。 「俺は、真奈美ちゃんの話をするために来たわけじゃないよ。」 少し、低くなった声。 「二人でしかできない話をしようって言っただろ?悠ちゃんの話を、もっと聞かせてよ。」
石場は、少しずつ私の方へ近づいてきていた。 私もそれに気付いていたが、遠ざけることもせず、なすがままの状態だった。
石場が私の隣に来る。 両手で私の顔を包み込んだ。
「・・・悠ちゃん、幸せそうなオーラが出てないんだもん。結婚するほど愛する相手がいるはずなのに、何か、別のものを求めてる顔してる。」 「ちょっ・・・。」 私は、あまりにも近い、彼との距離に戸惑っていた。 私の心臓の音が、部屋中に響いているような気がする。 「俺なら、悠ちゃんの欲しいもの、満たしてあげられると思うよ。」
私をじっと見つめる、石場の瞳。 身体中に響く、甘い声。
私は思わず、目を閉じてしまう。 彼の眼差しが、熱すぎて。 苦しくて、切なくて、どうにかなりそうだった。
おでこに、やわらかい感触。
石場のくちびるだ・・・・。
私はそっと、目を開けてみた。 優しい顔をした石場が、目の前にいる。
「今、悠ちゃん、とってもきれいな顔してる。」 「えっ・・・?」 石場が、私をやさしく抱き寄せた。 「こんなにかわいいのに、寂しい顔してちゃだめだよ。」 こうしてると、石場の声が、言葉通り、身体中に響いてくる気がした。 「俺がいっぱい、ちやほやしてあげる。いっぱい、優しくしてあげるよ・・・。」
夢の中にいるようだった・・・。
真奈美の、あの微笑みが瞼の裏に浮かんできた。 あれが、欲しいと思っていた。 あんな風に笑いたいと・・・。
あれは確かに、今の私が忘れてしまっているもののように思えた。 だから、私だってあんな風に笑えるはず、取り戻したい・・って、ずっと思ってた。
だけど・・・・。
私は、石場の腕に抱かれている。 石場が、私の欲しいものを与えてくれると言う。
「あなた、何を考えているの・・・?」 私は、重い口を、やっとのことで開いた。 「・・・俺は、ただ、悠ちゃんのそばにいたいんだ・・・。悠ちゃんの笑顔が見たいんだよ・・・。」
・・・・なんて、甘い声・・・。
私は、石場の顔を見上げる。 私たちの、視線がぶつかる。
ぴりぴりぴりっ・・・・
沈黙を破るように、テーブルに置かれた携帯電話が鳴った。
私は、急激に現実に引き戻された。 携帯電話のディスプレイに、健介の名前があった・・・。
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