今日、私は仕事の後、健介と一緒に食事をしている。 この前の日曜の埋め合わせのつもりだろう。 週の真ん中、健介が私のために時間を作ったようだ。
「今日はあんまり飲むなよ。」 健介はそう言って、私のグラスをチェックする。 「ご心配なく。私は健介みたいに、飲みすぎて朝起きられないなんてことはないから。」 「よく言うよ。年頃の女が、がぶがぶビール飲んでるのなんて、傍目にもあんまりいいもんじゃないぜ?」 「今さら、何言ってんのよ。」 私は、笑いながらグラスをテーブルに置く。 それを見て、健介が、吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。
「お前はさ、もうすぐ結婚するんだぜ?」 健介の目が、いきなり真剣になる。
「へっ・・・?」 「・・・そんなびっくりしたような顔するなよ。」 健介は、私の顔をじっと見つめる。 「この前も言ったはずだろ?・・・それとも悠子は、こんな中途半端な状態のまんま、何年も過ごすつもりなのか?」 「え・・・でも・・・健介、この前は・・・。」
健介は、「いずれは」って言っていた。 煮え切らない言葉に、少しいらいらしたりもした。 だけど、こんなに急に改まった話をされても困る。
「確かに俺は、いつ結婚するとは言わなかった。だけど近いうちのつもりで話をした。悠子もそのつもりだと思ってたよ。指輪渡すってそういうことだろ?」 「・・・だけど、こんな急にそんなこと言い出さなくても・・・。」
私は、石場のことを考えていた。 どうして? 石場と親密になった途端、今まであんなに言葉を濁していた健介が、急に具体的な話をし始める。
「悠子、俺と結婚するのはイヤか?」 健介の声が、少し小さくなった。 「嫌じゃないよ。嫌なんかじゃない。・・・だけど・・・。」 「・・・だけど、なに・・・?」 健介が、私をじっと見つめている。
答えられるわけがない。
確かに、いつ結婚したって同じだと思っていた。 その相手も、ほかの誰でもない、健介だと思う。 「いずれは」、結婚することはわかっていたことだ。
私の頭の中は、石場のことでいっぱいだった。
どうして、今なのか。 その言葉を聞くのが、もう少し早ければ。 きっと私は、何も考えることなくうなずいていた。 だけど、今の私は違う。 他の男の影を心の中に抱え、これから始まるその男との恋愛を思いながら、一日を過ごしている。
とりあえず結婚して、石場との付き合いを続ける? ここは、適当に返事をするべき?
いろんなことを考えたが、健介の真剣な表情を見ると返す言葉が思いつかなくなった。
健介が、また煙草に火を付ける。 「・・・確かに、悠子はまだ若いもんな。結婚なんて、まだ考えてなくて当たり前だよな。」 私は何も言えないまま、健介が吐き出す煙の行方を見つめていた。 「だけど、俺もやっと仕事で一人前になりつつある。家族を持って、食わせていく自信もついた。悠子がいてくれたから、ここまで頑張れたんだと思う。」 「・・・そんな・・・。私は、何も・・・。」 「いや。悠子がいなかったら、俺、もっとふらふらしてたと思う。」 健介の優しい笑顔。
それでも私は、頭の中から石場を追い出せずにいた。 こんなときでも、石場に会いたいと思っている。
「悠ちゃんは、彼とは結婚しないよ。」
石場の言葉を思い出す。
今日のことを、石場に話すとどんな顔をするだろう。 「やめろ」と言ってくれるだろうか。 それとも、まだSEXすらしていない、たった一晩一緒にいただけの女がどんな結婚をしようと、関係ないと笑うだろうか。
「私、結婚するなら、絶対健介と・・・って思ってる。」 私はそう言って、健介の目を見つめた。 「でも・・・まだ・・・。そういうのよくわからない・・。」 そこまで言って、私はうつむいた。 「日曜にお袋を実家まで送っていったろ?そのとき少し両親と話したんだ。誰か決まった子はいるのか?結婚は考えてるのか?って・・・うるさく聞かれたよ。」 健介が、深く息を吸いこんだ。 「俺、年末に実家帰ったとき、悠子のことをきちんと話そうと思ってる。だから悠子も、年末帰ったら、俺のことを話して来て欲しい。」
「うちの親には、まだ話せないよ・・・。」 私はそう言って、ビールを一口飲んだ。 「どうして?一応、俺たち結婚前提に付き合ってるんだろ?」 健介が、責めるような口調で言う。 「何か、話せない理由でもあるのか?」 「・・・何もないよ・・・。別に何も・・・。」 「結局何だよ?悠子は、俺とは結婚したくないのかよ。」 健介が、捲くし立ててくる。 「さっきも言ったでしょ?結婚するなら、健介と、って。」 私は、多少強めの口調で言った。 健介は、それを聞いて黙りこんでしまう。
長い沈黙が、私たちを包みこむ。
やがて、健介がゆっくりと口を開いた。
「悠子、このごろ変だよな。そりゃ確かに、急にこんな話して、急かしてるように思われるかもしれない。だけど、最近の悠子は明らかに変だよ。電話で話しててもぼんやりしてるし、今日だって、会ったときからずーっと変だ。何か、悩みでもあるのか?俺とのことか?」 「そんなんじゃないよ・・・。」 私は、俯いたままでつぶやいた。
両親に健介とのことを話せば、きっと喜んでくれるだろう。 自分の娘が、この先何様になるわけでもないことを、彼らが一番良くわかっているはずだ。 将来のことだって、心配を掛けていると思う。 高校を出て、進学もせずに社会に出て、さっさと実家を飛び出した。 近くに住んでいるのに、ろくに顔も見せない娘。 「結婚する」と言えば、一応将来が形になる。喜ばないはずがない。 だけど、それが「今」でいいのか? 私は、本当にそれでいいと思っているのか。 いくら考えたって、答えなんて出ない。 考えれば考えるほど、瞼の奥に浮かぶのは、彼の顔、声、まなざし。 健介ではない、あの人の。
「悠子は、何でも自分で抱え込むところあるだろ?そりゃ、なんでもかんでもさらけ出せとは言えないけどさ、できたら、俺にもいろいろ話して欲しいと思ってるよ。最近の悠子見てたら、特にそう思う。」 健介の視線を、強く感じつつも、私はまだ俯いていた。 「俺の知ってる悠子じゃないみたいな気がするんだよ。この頃のお前は、しょっちゅうそういう顔をする。」 「そういう顔って、何よ。」 「なんか、イラついてるかと思えば、ぼんやりしてみたり・・・。よくわかんねえよ。」 思い当たる節があるだけに、何も言い返す言葉はなかった。 「俺はさあ、お前のダンナになるんだぜ?できれば、なんでも話して欲しいよなあ。」
ダンナ・・・。 その言葉は、「結婚」というものにますます現実感を持たせて、私の中に飛び込んできた。
結婚・・・夫婦・・・生活・・・家族・・・。 今まで、自分とは一定の距離をもって存在していたものが、急に接近してくるように感じた。
・・・・・嫌だ・・・。
私を襲ってきたのは、鳥肌が立つほどの嫌悪感だった。
今の自分からは、ずっと遠い場所にあると思っていた未来。 結婚し、子供を授かり、家族との生活、それを軸にくるくる回る自分の日常・・・。
「悠子・・・?」 「とりあえず、この話はまた今度にしようよ。」 「でも、俺は親には話をするつもりだから。」 「何を焦ってるの?結婚はするって言ったじゃない。」 私は、思わず声を荒げてしまう。 「なんで怒ってるんだよ。結婚したくないなら、したくないってハッキリ言えよ。」 「そんなんじゃないってば!そんなんじゃ・・・。」 私は、健介を睨みつける。
また、沈黙が私たちを包み込む。
「まぁ、・・・とりあえず、年末は帰るんだろ?そういう話題になったら、それとなく話してくれればいいよ。」 健介は、黙りこんでしまった私をとりなすように、明るく言う。
たぶん・・・、この先健介は、私から切り出さない限り、結婚については具体的に口にすることはないだろう。 そういう人だ。 私の心の中に、無理矢理入ってこようとはしない。 白か黒か・・・。 はっきりさせなくても、グレーのままでそれとなく済ませてしまう人。 今日の話・・・結婚のことだって、今まであいまいな言い方しかしてこなかったから、こんな急な展開になるのだ。 あんな中途半端なプロポーズをして、自分の思うように話が進んだつもりになっている。 今まできっと、具体的なことは話すのを避けてきていたはずだ。 揉め事、トラブルを嫌って、はっきりとした答えを出さない。 今日、急にこんなことを言い出したのも、最近おかしかった私を試すつもりだったに違いない。
「どこまで踏みこんでいいですか?」
健介の言葉からは、いつも、そんな別の声が聞こえてくる気がする。
あぁ・・・。なんか、いらいらする。
私は、グラスに残っていたビールを一気に飲み干した。
|
|