私は、石場の愛車である、紺色のBMWの助手席でじっと窓の外を見つめていた。 どこへ行くとも言わず、彼は走り始めた。 だけど、窓の向こうの風景を見ているうちに、何となく、海へ向かっているのだろうということはわかった。
「悠ちゃん、今日はいい匂いがするね。」 信号待ちで車を止めて、彼が私の髪をそっと撫でた。 「香水付けてきたのよ。」 「うん。良く似合ってる。」 そう言って軽く私にキスをして、石場がにっと笑う。 何気ないこんな仕草が、心地よくてくすぐったい反面、胸の奥をぐっと締め付ける。 彼が、女を扱い慣れているのだと思い知らされる瞬間だ。 表情も、仕草も、全てがそうだ。 自分の動作一つで、女がどんな風に感じるかを彼は知っている。
青信号で、ゆっくりと走り出す。 ハンドルを握る彼の横顔を、私はさりげなく見つめていた。
この人は、本気で女を愛することがあるのだろうか。 どんな風に、女たちを抱くのだろうか。 そして、私は・・・この人にとってどういう存在なのだろうか。
考えがそこまで至ったときに、私の中の何かがストップを掛けてくる。
それ以上、考える必要はないと。
あの夜から、毎日のように胸をよぎっている。 私は、石場の何なのだろうと。 セックスをしたわけでもなく、思いを告げられたわけでもなく。 ただ、なんとなくここにこうして並んでいる。
なりゆき? 私自身の気持ちが、そんな単純なものではないことが、自分でよくわかっていた。 心の中の、「健介」という場所と全く違うところに、彼が存在している。 ふとした瞬間に、彼が存在するその場所が熱くなる。 狂おしいほどに、彼の声やまなざしが恋しくなる。
沈黙を破るように、私は話し始める。 「何を・・・考えてるの?」 思った以上にかすれている自分の声に、少し驚いた。 「んー?」 「今、何考えてる?」 「そりゃ、今夜、これから悠ちゃんと過ごす時間のことに決まってるだろ?」 彼は、ハンドルを握ったままこちらをちらっと伺う。 「悠ちゃんは、何を考えてるのさ。」 「・・・いろんなことよ。」 そう言って窓の外に視線を移すと、暗い夜の海が広がっていた。 「そのいろんなことは取り合えず後回しにして、海を見に行こうか。」 ゆっくりと車を止めて、彼が私の頬をそっと撫でた。
砂浜に下りると、遠くに他のカップルの姿が見えた。 付き合い始めた頃、あんな風に健介と並んで語り合ったことを、ふと思い出す。 あれは、初めて旅行に行ったときのことだっただろうか。 それとも、普通にデートで海に行ったのか。 大切な思い出だったはずなのに、それすら思い出せないことに自分で切なくなった。
今日のことも、いつかこうして忘れていくのだろうか。 曖昧な思い出になっていくのだろうか。
今夜、これから、私はここで、彼と何を語るというのだろう。 将来のこと? お互いの気持ち? 自分の夢?
そのどれも、今の私たちにはあまりにも似合わない話題に思えて少しおかしかった。
彼が、私の手をそっと握る。
「初々しくていいと思わない?」 そう言って笑っている。 「あなたと、こうして手を繋いで砂浜を歩くとは思わなかったわ。」 「こういうのもいいだろう?悠ちゃん、寒くない?」 「大丈夫。」 私は、靴を脱いで歩き始める。 「足、汚れるんじゃないの?」 「だって、こうしないと歩きにくいじゃない。」 薄手の黒いタイツを履いているから、汚れは少し気になったけど、それももうどうでもよかった。 こんなことすら、いつか思い出に変わり、忘れ去られていくのだろう。 足を少し上げてみると、足の甲も裏も真っ白になってしまっていた。 「ほら。汚れてる。」 「いいって。」 私は、彼の手をさらに強く握り締める。
夜の海の黒、私のタイツの黒、砂浜の白、足元を染める砂埃の白・・・。 空の黒、月の白・・・。 明かりもないこの空間では、何もかもがモノクロの世界だ。 彼が着ていた水色のシャツも、白っぽく暗闇に浮かんでいる。
じっと彼を見上げる私の手に、彼がそっと唇を寄せる。
その感触に、身体の奥深くがじんと痺れる。
手の甲に感じた、生暖かく柔らかい感触が、私の中の欲望を呼び覚まそうとしている。
たまらなくなって、私は彼に抱きつく。 彼の腕が、私の背中に回る。 手に持っていた黒いパンプスが、真っ白な砂浜に二つ転がる。 目を閉じても、瞼の奥はモノクロの世界。 その中で、自分の鼓動が何度も大きく鳴り響いている。
私たちの唇が重なり、少し離れてはまた吸い寄せられるように貪り合う。 瞼の奥の白は、その周りの黒に少しずつ侵食されていく。
彼が、欲しい。 こんなキスじゃ足りない。
彼の指が、私の髪を掴む。
11月の海。 冷たい風が吹いて肌寒いはずなのに、少しも冷たさを感じない。 燃えているのだ。
私の身体は、彼を求めて燃えている。
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