■純恋愛
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第三章 うたかた-7
私たちは、海辺に止めたままの車の中にいる。
石場が、CDを選んでプレイヤーに挿し入れた。
スタンダードジャズが車内に流れ始める。

「悠ちゃん、その足じゃお店とか入るの恥ずかしいんじゃないの?」
「やっぱまずいよねえ。」
「いや、俺は構わないけどさあ。悠ちゃん、お茶くらいは飲みに行きたいだろ?」
彼がくすくすと笑っている。
私は、思い切ってタイツを脱ぎ始める。
「えっ。脱ぐの?」
「だって、砂っぽくて気持ち悪いんだもの。」
車のドアを開けて、脱いだタイツと靴を軽く払う。
素肌になった足に、冷たい風が突き刺さる。
ドアを閉めた私を、彼が笑いながら見ている。
「寒そうだなあ。生足じゃんか。」
「高校時代を思い出すわねえ。冬でも生足!」
「おじさんには、刺激的過ぎるよ。」
そう言いながら、彼がまた、私の左手の甲にキスをする。
その刺激に、私は思わず声をあげそうになってしまう。
ただ、軽く手にキスをされただけなのに、熱い吐息が唇から漏れる。
彼の唇が、薬指に何度も触れる。

その意味がわかって、私は小さな声でつぶやいた。

「今日は外して来たのよ・・・。」
「うん・・・。」
「私、石場さんが言った言葉の意味が分かった気がする。」
「何?」
彼は、私の目を優しく覗き込んだ。
「私は、彼とは結婚しない・・・って、そう言ったよね?」
「・・・言ったね。」
「私、なんとなく分かったわ。自分が彼と結婚しないかもしれない理由・・・。」
彼が、ついさっきまで唇を寄せていた左手を、自分の右手でぎゅっと握り締める。
「結婚も家庭も、私は欲しくなかったの。そんなことにも気付けないほど、私は自分の気持ちに無頓着だった。」
「無頓着?」
「そう・・・。ただ、毎日のいろんなことに流されて、考えるのが面倒になっていたのかもしれない。」
私は、そこまで言って助手席のシートにもたれこんだ。
彼は、ハンドルに肘をついたまま私を見つめている。
「石場さんは、私が、"まだ足りない"って顔をしてるって言った。でも、そうじゃない。・・・足りなくなんてないの。健介は、とても良くしてくれる。」
「・・・うん。」
「足りないんじゃない。"違う"のよ。私が欲しいものじゃなかったの。結婚も、彼と築く家庭も。」
そこまで言った私の右頬を、彼がそっと大きな右手で包み込む。
「彼のこと、愛してるんだろ?」
「・・・この頃は、もうそれすら分からない。確かに、私は彼を愛してた。だけど、今は・・・わからない・・・。」
「彼と、別れたい?」
「ううん。」
私は、大きく首を横に振る。
「好きじゃないとか、別れたいとかそういうんじゃない。今でも、私にとって彼は大切な存在だし、そばにいて欲しい人だと思ってる。」
思いを口に出して話しているうちに、その内容と目の前で聞いている男の存在の矛盾を感じてしまう。
どうして私は、健介に対する気持ちを、浮気相手である彼に向かって語っているのか。

「悠ちゃんの言わんとすることは、よくわかるよ。」
ハンドルにもたれ込んで前屈みになっていた彼が、ゆっくりとシートに身体を預けていく。
「男と女は、長い時間一緒にいるとさ、男と女として向き合うことが減っていったりするんだよな。」
「・・・うん。それは、私も感じてる。」
「下手すると、男女を意識するのがセックスしてるときだけだったりするんだよ。キスすら、生活習慣の一部みたいになって。最後には、セックスも生活の一部になっていく。」
彼の言葉に、最近の私と健介の姿が何となく重なる。
「悠ちゃんには、女が足りないんだよな。」
「女が?」
「そう。女を感じる時間だよ。」
彼の視線を横顔に感じながら、私はじっとフロントガラスの向こうを見ていた。
テトラポットに並んで座る、若いカップル。
彼らは、持っているのだろうか。
私が忘れてしまった時間・・・、男女としての、恋するもの同士としての時間。
健介はどうなんだろう。
私が健介に対して思うのと同じように、少しずつ何かを置き忘れたように感じているのだろうか。

少し考え込んでいた私の顔を、彼がそっと覗きこんでくる。
「さっき悠ちゃんは、足りないんじゃなくて"違う"んだって言ったけど、やっぱ"足りない"んだよ。それは、悠ちゃんの彼が悪いわけでも、悠ちゃんが悪いわけでもない。二人で過ごしてきた時間が、そうさせただけだ。」
「じゃあ、長く付き合うって、結婚するってそういうことなの?そうやって、男女としての自分たちを失っていってしまうことなの?」
「うーん・・・。」
彼は少し考え込んだように、またシートに沈み込む。
「少なくとも・・・俺にとってはそうだったよ。」
そう言って、自嘲するように笑う。

「前の奥さんは、どんな人だったの?女を感じなくなってしまったから、別れてしまったの?」

口に出そうとしたが、声が喉に張り付いたようになってしまい、結局言葉にならなかった。

「結婚自体は、悪いもんじゃないよ。ただ、今は悠ちゃんが結婚するタイミングじゃないんだよ。」
彼は、そう言って少し身体を起こした。
「今は、結婚したいと思ってる彼の気持ちと、少し迷ってる悠ちゃんの気持ちが噛みあってないだけさ。逆に言えば、いずれ悠ちゃんが彼と一緒になりたいと思ったとき、今度は彼がそういう気持ちになれないかもしれないしね。」
彼の言葉に、私はなんとなく心の中で反発した。
私が、健介と結婚したいと思う日が来るのだろうか。
目の前の彼は、それを望んでいると言っているのか。
「悠ちゃんは、彼とは結婚しない。」などと言ったくせに。
健介と別れて欲しくない、いずれ結婚して欲しいなら、なぜあんなことを言ったのか。
そして、なぜ今もこんなことを私に言うのか。

・・・かと言って。
彼が、健介と別れて欲しいと言ったら、結婚なんて絶対するなと言ったら・・・。
困るくせに。
なのに、心の中でそれを少し望んでいる私がいる。

「今の悠ちゃんにとっては、俺と彼氏でちょうど一人前なんだよな。彼氏で埋められない部分を、俺が埋めるんだ。」

あなたは、それでいいの?

その言葉もまた、声になることはなくかき消されてしまった。

私にとっては、とても都合のいい話のはずなのに、どうしてこんなに心が軋むのだろう。
「俺は、一緒にいられる間はずっと、悠ちゃんとは男と女でいたいよ。ときめいたり、ぞくぞくしたり。」
ときめきを失ったとき、彼は私の前から去っていくのだろうか。
彼の向こう側には、一体どれだけの女がいるのだろう。
そして、どんな女たちを踏み越えて私の前へやってきたのだろう。
彼の笑顔の向こうに、ふと真奈美の姿が横切る。
あの日の、真奈美。
彼に媚び、甘いまなざしを送りながら微笑んでいた真奈美。

今の私は、どんな顔で彼を見つめているんだろう。
あんな風に、媚びて笑っているのか。
重苦しい、恋愛欲求オーラを漂わせているのだろうか。

健介が埋められない部分を埋めると言って微笑んだ彼。
彼に、それが埋められるというのか。
私が欲しいものを、あなたは持っているの?
それを私にくれるの?
これからどうするの?
どうしたいの?

こんなに近くにいても、どうしてこれほど曖昧な存在なのか。
今の自分の気持ちも良くわからない。
彼の気持ちは、もっとわからない。

「悠ちゃん・・・?」
彼が、そっと私に顔を近づける。
彼の右手が私の髪を撫で、お互いの額がぶつかる。
「いい香りだ・・・。」
私の首筋に顔を埋めた、彼の吐息と甘い声が耳たぶを震わす。
その瞬間、あれこれと思い悩んでいたはずの私の思考回路がシャットダウンされる。
身体の奥が熱を帯び、思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。
彼の手は、そのまま私の脚へと進み、そっと太ももに触れる。
ミニスカートから伸びた私の脚は、タイツを脱いだ素肌のままひんやりとしていた。
そこに、彼の体温を感じて思わず声が漏れる。

「石場さん・・・抱いて欲しいの・・・。」
欲望を口にした途端、私の身体はさらに熱くなった。
胸の中でもやもやしていたはずのあれこれは、そのとき完全に消え失せる。

「お茶は?飲みに行かないの?」
いたずらっぽい声で笑う彼の身体を、軽く突き放す。
「うるさいなあ。じゃあ、もういいよ。」
「ウソだよ。俺の部屋に行こうか。ここからなら、悠ちゃんの部屋よりも近いよ。」
彼は私に軽くキスをして、ハンドルを握る。
走り始めた車の軽い揺れを感じながら、出かける直前にバッグに押し込んだ、基礎化粧品やら替えの下着やらの「お泊りセット」のことを思い出していた。
いくら身体は熱くなっていても、出かける前から身の回りの手入れのことを冷静に考えていた自分が、ひどく滑稽に思えた。

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