■純恋愛
>>home  >>novels  >>index  >>back  >>next
第三章 うたかた-8
目覚めた瞬間、見慣れない風景に少しとまどった。
しかし、背中に感じるぬくもりに、ここが石場の部屋だったことを思い出す。
私は裸のまま、同じく裸の石場の腕に背中から包まれている。
彼を起こさないよう、首だけをそっと動かしてベッドサイドの時計に目をやる。
薄暗い部屋に、白っぽい時計の文字盤がぼんやりと浮かんでいる。

午前1時。
30分ほど眠ったのだろうか。

海へのドライブからこの部屋に戻り、すぐに私たちは抱き合った。
シャワーを浴びる時間すらもどかしくて、そのままベッドに倒れこんだのだ。
冷静さを欠いていたとはいえ、彼はやはり慣れていた。
私の服を脱がせる手際も、身体中を愛撫する指も舌も唇も、彼の経験の豊富さを感じさせた。
昔の私なら、そこで少し気持ちが萎えていたんだろうと思う。
だけど、いつの間にか私は、割り切ってセックスを楽しむことを覚えていたようだ。
今までに何人もの女が、この部屋で、このベッドで彼に抱かれ、甘い悲鳴を上げていたとしても。
それを思い浮かべ、少し複雑な思いを抱いたとしても。

彼の重みと体温を感じながら、何度もその向こう側に真奈美の影が見えた。
彼の話をしながらはにかんで見せる真奈美。
初めて彼と会ったあの夜、何度も媚びた微笑を彼に向けていた真奈美。

快感の波が訪れると、健介が私にくれるそれと比べてみたりもした。
その感覚は、今まで経験していたものと明らかに違う。
好きな男に抱かれるときめきやとまどいよりも、矛盾に満ちた現実そのものが私を熱くしていた。
身近な者を裏切っているにも関わらず、その罪悪感すらをもかき消す、感情や欲望の波が私を包み込んでいた。
私は、彼との行為よりも、その向こう側にあるものたちに酔っていたような気がする。
好意を持っている男との、初めてのセックスだったのに、だ。
私は、彼に抱かれていたのではなく、私たちを取り巻く様々なドラマに抱かれていたのかもしれない。

身体を少しよじり、静かに寝息をたてる隣の男に視線を移す。
そっと手を伸ばして、彼の頬を撫でてみた。
部屋が薄暗いせいか、彼の輪郭も周りの風景もぼんやりしていて、まるで現実感がなかった。
セックスをすれば、もっと彼のことや私たちの関係を理解できるのだと、なんとなく思い込んでいた。
なのに、今もまだ自分自身の気持ちは、私たちの間にある何かを越えられずにいる。
今いる場所も、彼の気持ちも、そして自分の気持ちすらも曖昧なままで、ただそこに存在しているだけのような気がする。
触れ合う素肌は、確かに暖かい。
なのに、その感覚すら目を覚ませば消えてしまいそうで、まるで夢の中にいるようだった。
どうして、この男にはこんなにも現実感がないのだろう。
女好きで、離婚歴がある。
言ってみれば、とても俗っぽい人間なのに、汚れた感じもしなければ過去の匂いもしない。
女の気配はあるのに、だからどうだと思わせない空気がある。

遊び人。女好き。実際に身体を重ねる女がたくさんいる。
だけど、それはみんな私が彼に対して感じただけのこと。
本当の彼がどうなのかなんて、分からない。
どんなにまっすぐに見つめられても、甘い声を掛けられても、強く抱き合っても。
それ以上の何も、彼は私に感じさせてくれないのだ。
言葉も仕草も表情も、彼の実体を教えてはくれない。
ただ夢を見るように彼と触れ合い、曖昧な彼の輪郭をなぞることしかできない。
そして、そんな彼と触れ合っているときの私も、現実感を失くしてさまよっているのだ。

彼の腕をそっと身体から外して、私はベッドを出る。
床に落ちた二人の下着や衣服を整理したあと、リビングへと向かった。
明日が月曜であることを、ふと思い出して小さなため息が出る。
シャワーも浴びず情事に溺れ、化粧も落とさぬままだった。
バッグから「お泊りセット」を取り出しながら、少しずつ現実に帰っていく自分を感じる。
ついさっきまで、男の腕の中で身体を火照らせ、ふわふわと彷徨っていた私の意識が「明日」という現実に着陸しようとしていた。
どんなに疲れていても、酔って瞼が落ちようとしていても、化粧だけは落として眠るのが私だ。
いつだって、頭の片隅や心の片隅には冷静な自分がいて、「明日」の化粧のりを気にしたり、睡眠時間を逆算していたりする。

化粧を落とし、シャワーを浴び終えて部屋に戻ると、パジャマ姿の彼がソファでテレビを見ていた。
「起きてたの?」
「うん・・・。あ、それじゃ寒いよなあ。俺のスウェットを貸すよ。ちょっと待ってて。」
バスタオルを巻いた姿の私を見て、彼がそう言って寝室へ入っていった。
暗いままの部屋に、テレビの明かりが部屋の片隅を照らし出す。
広いリビングに、ぽつんと置かれたテレビとソファ。
ダイニングには、真新しいテーブルと椅子。
まるで生活感の感じられない部屋は、彼自身の持つ雰囲気そのままだった。
ところどころ散らかっているのに、その空間は部屋の主の気配を漂わせてはいない。

「とりあえず、これ着てて。」
彼が差し出したスウェットに着替え、私は彼と並んでソファに座る。
「悠ちゃん、明日仕事だろ?大丈夫?」
「んー。大丈夫よ。」
「明日の朝、会社まで送るよ。何時にここを出れば間に合う?」
「うーん。9時10分前に会社に着けばいいから、8時過ぎに出ればいいんじゃない?」
私は、伸びをしながら彼の身体にもたれ込む。
「そうだなあ。まあ、いくら混んでも一時間はかからないだろうしね。」
「お気遣い、ありがとうございます。」
「お姫様が遅刻して、上司に怒られたりしちゃカッコ悪いだろ?」
彼が、私の顔を覗きこんで笑う。

彼の笑顔を、テレビから漏れる白っぽい明かりが照らす。
この人の笑顔が好きだ。
声が、好きだ。

いつか真奈美が言っていたように、心の中にゆっくりと入り込み、全身を震わせるような甘い声。

ゆっくりと寄り添い、胸に顔を押し当てる。
彼は、そんな私の頭をそっと抱きながら、片手でリモコンを取り、テレビを消した。
「さあ。女の子は朝の準備も大変だろ?あともう少し寝られるから、ベッドへ行こう。」
彼に促されるまま寝室に入り、その腕に抱かれてベッドに横たわる。
「おやすみ。悠ちゃん。」
「うん。おやすみなさい。」
彼の笑顔につられるように、私も軽く微笑みながら答えた。
少し身体を離して、彼に背中を向けた私の頭を、彼が軽く撫でた。

サイドテーブルに置かれた、時計の針の音をぼんやりと聞きながら、彼と出会った日のことを思いだす。
あの日、どんなに長い時間話していても、どこか隔たりを感じるのは、身体を重ね合っていないせいだと感じていた。
もちろん、理由はそれだけじゃないだろう。
健介の存在や、真奈美の彼への思い、彼や私を取り巻く様々な環境も絡み合っているはずだ。
だけどそれらも、私の気持ちを高揚させる要因にさえなっていたのだ。
罪悪感を感じながら、その裏側で女としてのプライドや優越感をくすぐられる。
それがあまりに心地良くて、私を夢中にさせる。
なのに、セックスという行為は私から、彼をさらに遠ざけた。
服を脱いだくらいでは、届かないものが多すぎるのだ。
本当の意味で「男と女」になったはずなのに、身体の距離が近い分、その存在の不確かさを強く感じてしまう。
だけど、これ以上彼に近づきたいとも思わない私がここにいる。

退屈で、単調な繰り返しの毎日。先の知れた未来。
そんな現実に嫌気がさしたとき、この曖昧な、夢のような世界に私は逃げ込む。
こうしてそっと目を閉じれば、眠りに落ちていくように。

だから、私はこれからも彼に会い続けるのだろうと思う。
今の私であるうちは。
どこか、日常に疲れた私であるうちは。

>>index  >>back  >>next 
>>home  >>novels
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送