朝が来て、私と彼の乗った車が会社に近づくとともに、日常の風景が私の目に飛び込んでくる。 私の身体はまだ、夕べの余韻を残してどこか浮付いている。 毎朝歩く、駅前から会社へと続く通りは、同じ会社の人間の目に付きやすいので避けることにした。 少し遠回りになるが、いつもとは逆の方角から会社の近くへと入る。 「どこで止めればいい?」 彼が、少しずつ車の速度を緩めながら言った。 「その十字路の手前で止めて。そこから歩くから。」 「オッケ。わかった。」 ゆっくりと、車が路肩に止まる。 「気をつけてね。一日しっかり頑張って。」 「うん。送ってくれてありがとう。」 彼は、私の頭をくしゃっと撫でると、そのまま顔を近づけてキスをした。 「いってらっしゃい。またメールでもするよ。」 「ありがとう。メール待ってる。」 ドアを開け、少し周囲を気にしながら車を降りる。 十字路を、会社に向かって曲がる手前まで来たところで、私の後ろを彼の車が通り過ぎて行った。
表立っては話してはいないものの、私と健介の関係は、会社では半ば公然としたものになっていた。 仕事とはいえ、週に何度かうちの会社に来て、私と軽く雑談をして帰る。 はっきりと私たちの関係を話してあるのは真奈美だけだが、よほど勘が鈍くない限りは皆何かを感じているのだろう。 そんな中で、こんな風に人目を忍んで誰かと会う。 車を止めたところから会社までは、歩いて5分もない距離だけれど、私の心を浮き立たせるには十分だった。 夕べのことを思い出して少し照れくさくなりつつ、俯いたまま歩いていると、見覚えのあるパンプスが私の視界に飛び込んで来た。
よく考えれば、少し前からあのパンプスはあそこに立ち止まったままだった気がする。 一歩も動かず、じっとこちらにつま先を向けている。 あれは、間違いなく真奈美のパンプスだ。
いつもなら、駆け寄ってきて声を掛けるくせに。 なぜ、こちらへ来ないのか。なぜ、一言も発しないのか。 ずっと、そこに立っていたのか。 歩いている私を見ていたのか。 ・・・どこから? ・・・いつから? 背筋を、冷たいものが走る。 彼の・・・石場の車から降りてきたのを見ていたとしたら。 いや、そんなはずはない。 私が降りたのは、十字路の向こう側だ。 今、真奈美が立っている場所から、そこが見えるはずがないのだ。 不気味なほど、静かに地面を踏みしめたままの彼女の両足から目が離せない。
気付かない振りをして、俯いたまま歩いて行く。 真奈美のブラウンのパンプスが、少しずつ近づいて来る。 後5メートルほどで、真奈美にぶつかろうかというところで、私は根負けして顔を上げた。 「・・・真奈美・・・。」 「おはよう、悠子。」 いつもと変わらない笑顔で、真奈美は私を見ている。 「おはよう・・・。」 「悠子ったら、全然こっちに気付かないんだもん。」 「あ、ごめん・・・。」 明るい声に、少し安心して私は軽く微笑んだ。 「今日は、電車じゃないのね。」 「へっ?・・・。」 真奈美の問いに、全身が総毛立つほど動揺していた。 「だって、向こうから歩いて来たからさあ。逆方向じゃないの。駅と。」 「あ?ああ。夕べ、友達と遊んでてさあ、その子の家に泊まったのよ。それで・・・。」 「あら、悠子。今週も高原くんとは会わなかったのね。先週も私に付き合わせちゃったのに。」 「健介は、出張よ。」 「あら。そうなんだ。ツイてないわねえ。」 真奈美は笑いながら、会社に入っていく。私もそれを追うように、歩き始めた。
本当に、いつも通りの真奈美だ。 よく笑い、明るい声で話す。 真奈美は、何も気付いてはいないのか。 何も見てはいないのか。
だったら、どうして。 あんな所にじっと立ち止まり、こちらを向いていたのだろう。 まっすぐ、静かに・・・じっとこちらを向いていたあのパンプス。
「悠子、いい匂いがするね。香水?」 いくらお泊りセットを持参していたとはいえ、洋服は昨日のままだ。 きっと、残り香が香っているのだろう。 「うん。昨日、少し付けたからね。まだ残ってるみたい。」 「珍しいじゃない。なんでまた、そんなオシャレをしたのよ。」 「まあ、たまにはね。夜遊びしたからさあ。」 「ほどほどにしないとダメよ。高原くんに心配掛けるじゃないの。」 おそるおそる真奈美の質問に答えながら、じっと彼女の顔色を伺っていた。 ビル内のエレベーターに二人で乗り、ボタンを押してから私は切り出した。
「どうして、声を掛けてくれなかったのよ。」 「ん?」 「さっき。会社の前で。」 「ああ、さっきね。」 真奈美は、上を向いてフロアの表示をじっと見ている。 「びっくりしたよ。前を向いたら、仁王立ちしてるんだもん。」 私は、つとめて明るく声を出す。 そんな私を、真奈美が横目でちらりと見た。
「いつ気付くのかな・・・って見てたの。気付かないのかなあ・・・って。」
いつも通りの明るい声だった。 なのに、真奈美の表情は、恐いくらいに冷たかった。 知り合って3年。 真奈美のこんな顔を見るのは、初めてだった。 どこまでも冷酷な目で、私を見下すように微笑んでいる。
言葉を失ってしまった私をよそに、エレベーターが高い音を出して止まる。 先に降りた真奈美が、振り返って左手を軽く上げた。
「指輪、外してるのね。」
そう言って、満面の笑みを見せた。 何も答えられない私を置いて、真奈美は廊下を先に歩いて行く。
真奈美が、私と石場の間に何かを感じているのは確かだった。 今朝、一緒だったのを見られていたのだろうか。 しかし、真奈美がいたあの場所からは、私たちの姿は見えなかったはずだ。 何を、どこまでわかっているのか。 それが気になったとしても、私から真奈美にそれを問うわけにはいかない。 問えるはずもないのだ。
真奈美の姿が廊下の奥に消えた後も、私の心臓は激しい鼓動を繰り返していた。 石場とのことを知られたのが、恐いわけじゃない。 考えてみれば、そんなことは初めから恐れてはいなかった気がする。 健介には知られたくない、知られるわけにはいかないとずっと思ってはいたが。 真奈美の場合は、一方的に石場に思いを寄せていただけなのだ。 石場は、真奈美でなく私を選んだ。それだけのことだ。
会社の前でじっと立ったまま、こちらを見つめていた真奈美。 明るい声で話しながら、見たこともない冷たい目をして私に微笑んだ真奈美。
ふと、自分の左手が固く握り締められたままなのに気付く。
「指輪、外してるのね。」
そう言った真奈美の声が、頭の奥に貼りついたまま離れない。 私は、深く息を吸い、震える鼓動を抑えながら廊下を歩きはじめた。
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