真奈美の私に対する態度は、あの日以来、特に変わりはなかった。 私があまり話しかけないために、以前ほどの接触はないものの、顔を合わせれば普通に明るく声を掛けてくるし、笑顔も見せる。 さすがに、もう飲みに行ったりすることはないが、時折昼食を一緒にとることすらあった。 真奈美の方から、一緒に行こうと声を掛けてくるのだ。
私は、あの日のことに関して、石場のことに関して、真奈美に何も問うことができないままだ。 私と石場の関係について、知っているのかいないのか。 実際のところは、未だにわからない。 だが、あの日の真奈美の態度や表情から、何かを感じているということは分かった。 私に対して何かを感じたから、あんな態度をとったのだろう。 これも、憶測に過ぎないけれど。
あれから真奈美は、少しずつ私のイメージを裏切り始めた。 女らしく、控えめで、真面目。お嬢様風で、少し地味。 結婚願望が強く、いわゆる、いいお嫁さんタイプ。 そんな印象だったはずなのに。
外見が、大きく変わったというわけではない。 しかし、少し控えめに、もじもじしていた彼女はもういない。 仕草も違えば、表情も違う。 出入りの若い営業マンに、少し恥ずかしそうに媚びて話すこともなくなった。 それでも、ふとした瞬間に、色っぽさを感じさせることが多い。 今まで、彼女が年上だと認識することなど少なかったのに、その色気のせいか、3つの歳の差を感じることすらある。
真奈美に、何があったのか。
ただかわいいだけの、つまらない女だと思っていたのに。 私は、複雑な心境だった。 もしかしたら、真奈美には恋人ができたのかもしれない。 それは、石場かもしれないし、そうではないかもしれない。 もし、彼女が石場と男女の関係になっていたとしても、何の不思議もないのだ。 元々、石場に思いを寄せていたのは彼女の方だ。
私と石場は、ずっと逢瀬を続けている。 週に一度か二度、平日の夜に食事をして、彼の部屋で抱かれる。 初めて会った頃に感じた、強烈な感情の熱は静かに冷めようとしていた。 それでも私は、彼と会うことをやめない。 何かに浮かされたように、彼を求めるのだ。 彼と向き合うことで作られる空間や、その空気を、手放すことができない。 彼といれば、過去も、未来も、自分たち二人以外の全てを忘れることができる。 ただ目の前の相手を欲し、求め合うだけの時間を過ごすことができるのだ。 そうして、私はまた日常の退屈さすら、いとおしく思えるようになっていた。 長い夢を見たあとに目覚めた朝が、清々しく感じるのと同じように、彼から解放されたあとも、いつもと変わらぬ日常が存在することに安堵し、その日常が色あせる前に、また彼と愛し合う。 そんなことの繰り返しだ。
私は、ハンバーガーを頬張りながら、バッグの中の手帳を取り出した。 今は昼休みで、昼食を取りにこの店に来ているのだ。 窓の向こうの風景は、クリスマス一色だ。 今年は、24日も25日も平日だから、特にこれといって大きなイベントもないだろう。 多分、24日には仕事が終わったあとに健介と会い、夕食を一緒に食べてプレゼントを交換する。 去年もそんな過ごし方だった。 私の意識は、クリスマスよりもっと先に飛んでいた。 そう。年末の帰省だ。 帰省といっても、私の実家は同じ都内だからそんな大げさなものではない。 それでも、お盆に帰ったっきりだから、また何か言われるだろう。 近くに住んでいても、めったに顔を見せないのだから。 手帳の28日のところに、大きく丸を書いてみる。 それとも、30日・・・。 私はまだ、いつから実家に帰るのかを決めていなかった。
正直、あの家には居場所がない気がしていた。 父、母、2つ年下の弟。普通の家庭。 世間の常識や決まりごとから外れるのが大嫌いな父に、反発していた時期があった。 型にはまりきった考え方で、私の生き方まで決められてしまうことが嫌で仕方なかった。 特に勉強したいこともないのに、「みんなが行くから」という理由で大学に進学させようとしていた父に反発し、私は高卒で就職を決めた。 ただあの家を出たい一心で貯金をし、弟の大学受験で家がごたごたしている隙に飛び出した。 あれから、2年も経つのに。 「型にはまった」父に反発して家を飛び出した私は、結局、「型にはまった」生き方しかできずにいる。 私が嫌で仕方なかった、「それなり」の生活しかできずにいるのだ。 「それなり」に毎日を生きて、「それなり」に幸せ。 時が経つほどに、自分というものが分かってくる。 自分が、どれほどの人間か、どこまでやれる人間か。 結局、私は、「それなり」にしか生きられないのだ。 もう、あれこれと夢を追ったり、今の生活を捨てる勇気などないのだ。
そんな自分のまま、あの家に帰ることは苦痛だった。 大きなことを言って、飛び出した結果がこれだ。 少しずつ、あの家から足は遠のき、今年はお盆に一泊しただけで一度も帰っていない。
健介のことを、ふと思い出す。 両親に、彼の話をするべきなのだろうか。 変わらず会ってはいるが、以前に結婚の話で少し言い争って以来、その話はしていない。 不思議なことに私は、石場と逢瀬を重ねるごとに、少しずつ健介と結婚する気になっていた。 石場と触れ合うことで、健介という男の魅力を知り、健介をなぜ好きになって、どんな部分が愛しいのかを深く感じるようになった。 私にとっては、二人とも必要な存在なのだ。 石場がいるから、健介と過ごす時間や存在に安心感を得て、暖かい気持ちになれる。 健介がいるから、石場という男と触れ合う時間が恋しくなる。
この先、私たちはどうなるのだろう。 考えているつもりでも、それは少しも現実的ではなかった。 「考えたって、仕方ないじゃない。」 いつもそんな結論に達する。 石場とも、健介とも離れられないのだから、2人とうまくやるしかないのだ。 石場と真奈美に何かあったのかもしれないということは、気にならないと言えば嘘になる。 だけど、それで石場との関係が何か変わるのかといえば、決してそうではないのだから。 彼は、ほかの女の存在を、具体的に私に感じさせることはないだろうし、私もそれを知ろうとは思わない。
手帳を閉じ、コーヒーを一口飲んでから時計に目をやる。 テーブルの上を手早く片付けて、私は店を後にした。
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