■純恋愛
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第四章 To be or not to be-11
幸太の車の中は、若い男の子そのものの雰囲気になっていた。
私は、まだ父親がこの車を所有していた頃に乗った記憶しかない。
だから、少し妙な気分になっていた。

「あんた、うるさいからちょっと音楽のボリューム下げなさい。」
「え。姉ちゃん、おふくろみたいなこと言うなよ。」
幸太は、ぶつぶつ言いながらステレオのボリュームを下げた。
お盆に会ったときには、小麦色に日焼けしていた幸太も、今は見慣れた肌色に戻っている。
「お父さんとお母さんはどう?変わりないの?」
「んー。おふくろは、あれだ。高血圧かなんかで病院行ってるみたいだな。オヤジも、何かメシのときに薬飲んでるし。よくわかんねえけど。」
「わかんないって、あんた、気を付けて見てなさいよ。倒れたりでもしたら、どうすんのよ。」
「大丈夫だって。相変わらずガミガミ言ってるし。元気そうだもん。」
そう言って、幸太が笑う。

これから、あの家に戻って話さなければならないことはいろいろとあるが、不思議と、以前帰っていたときに感じた憂鬱さはなかった。
ただ、幸太の言葉に、親も歳をとるのだという、当たり前のことを今更思った。
親というのは、いつまでも変わらずあの家にいるものだと思いこんでいた。
だけど、歳をとれば体のあちこちが傷むのが自然なことなのかもしれない。
いつまでも元気で、あの家で二人それなりに暮らしていると思っているから、私もこうしてめったに顔も見せず、一人で好きなように暮らして来れたのだろう。
もう、私も結婚しようかという年齢になったのだ。
親も、それだけ歳を重ねている。

窓の外の風景が、懐かしい街のそれへと変わりはじめる。
私が20歳まで過ごした街へと戻ってきたのだ。
こんなに近いのに、どうしてあんなに距離を感じていたのだろう。
私が暮らす部屋で思う、生まれ育ったこの街は、はるか遠くにあるような気がしていたのに。

この街には、私が小学校に入る直前、幸太が幼稚園に入る前に引っ越してきた。
それ以前は、父の会社の社宅に住んでいたのだ。
父と母が、守り続けている家。
そこで、私と幸太も守り育てられ、この街で友達と過ごし、勉強したり恋をしたりして、いろんなことを覚えた。
そして私は巣立ち、幸太も巣立って行こうとしているのだ。

ゆっくりとガレージに車が入り、私は助手席から降りる。
幸太にボストンバッグを持たせ、玄関の扉を開けた。
その音を聞きつけて、母が玄関へと駆け寄ってくる。
「ただいま、お母さん。」
自分で言った言葉に、涙が出そうになった。
たった数ヶ月しか経っていないのに、目の前にいる母が懐かしくて仕方なかった。
家の中に入ると、父がゲームをしている。
「何?お父さんたら、そんなもんにハマってんの?」
「おう。悠子か。まあ、座れよ。お母さんにお茶でも入れてもらえ。」
それだけ言って、父はまたテレビの画面に視線を戻す。
「お父さん、最近はそればっかりなのよ。幸太が買ってきたのに、なんだか変に夢中になっちゃって。」
ゲームをしている父の向かい側に座り、こたつに足を突っ込む。
「ほら、お父さん。せっかく悠子が帰ってきたんだから、そんなのもう止めなさいよ。」
「んー。まあ、あと少しでキリのいいとこだから・・・。」
父は、母の言葉に顔も向けずに答える、
「いいのよ。お父さんなんか楽しそうだし。」
「しょうがないわねえ。」
母が、コーヒーをお盆に載せて持って来て、私の隣に座った。
「お母さん、血圧高いの?幸太が言ってたけど。」
「ああ。ちょっとね。でも、お薬貰って飲んでるから大丈夫よ。」
「お父さんも、何か薬飲んでるんだって?」
父が、ゲームを消して私たちに向き直る。
「コレステロールが高いみたいでなあ。」
コーヒーに口を付けてから、父が言った。

「姉ちゃん、上の部屋に荷物置いといたからな。」
幸太が、二階から降りてきて顔だけを覗かせながら言った。
「幸太、お姉ちゃん来てるんだから、あんたもこっちに座りなさい。」
母の言葉に、少しめんどくさそうな顔をした幸太が隣に座る。
久し振りの光景。
私がいて、幸太がいて・・・父と母がいる。
私や幸太が幼い頃、宿題をしたりお菓子を食べたりしたのと同じテーブルを、少しずつ歳を重ねた家族で囲む。
笑ってしまいそうなくらい、普通の家族の光景。
こんな家庭を、私も持つのだろうか。
健介と一緒に、子供を育て、家を守り、ゆっくりと老いていきながら。
もう動き始めている未来なのに、少しも現実的ではなかった。




夜、食事を終えたあとで自分の部屋に入ってベッドに横になった。
何もかも、ここを出たときと変わっていない。
向こうの部屋に持っていった分の荷物や家具が少し減っただけ。
「悠子、入ってもいい?」
「うん。どうぞ。」
母の声に、起き上がって答えた。
マグカップを二つ持った母が、優しい顔で笑いながら部屋に入ってくる。
「私、テレビが見たいの。下で、お父さんがテレビ占領しちゃってるから。」
「よっぽどあのゲームがおもしろいのね。」
「困ったもんだわ。いつもこの部屋でテレビ見てるのよ。私。」
そう言いながら、母がテレビのリモコンのスイッチを押した。
今、少しだけ話題になっている連続ドラマのオープニングのようだった。
「ここは、お母さんのテレビ観賞部屋になってるのね。」
「まあ、そんなところね。」
テレビを見ている母の横顔を見ながら、私は近い将来の自分を重ねようとしていた。

母が間違ったことをするのを、見たことなんてなかった。
家庭を守ることに対する迷いも、感じたことがない。
結婚すれば、子供ができれば、自然と母のようになっていくものなのだろうか。
ナオに「生真面目」と言われた私の性格は、この母や、黙々と家庭を守り続けた父から譲り受けたものなのだろうか。

「お母さん・・・。」
「んー?」
「お父さん以外の男の人・・・好きになったことってある?」
「え?そりゃあるわよ。お父さんと結婚する前は、違う人と付き合ってたんだから。」
母は、テレビから目を離さないままで笑って答えた。
「うーん。聞き方が悪かったわね。なんていうか・・・結婚したことを、後悔したことはあるのかな?って思って。」
私の言葉に、母は少し考えたあとで振り返って微笑んだ。
「ないと言えば、嘘になるわね。」
「あるの?」
聞き返すと、母は含み笑いをしながら少しうつむいた。
「そうね。悠子ももう大人になったから、話してもいいかもね。」
母はリモコンに手を伸ばし、テレビの電源をオフにした。
少しの沈黙が私たちの間に流れ、軽く息を吸い込んでから母が話しはじめた。

「私ねえ、お父さんと結婚したばかりの頃はまだ迷っていたのよ。本当に、これでよかったのか、ってね。」
母の静かな声を、私はじっと膝を抱えたまま聞いている。
「だけど、悠子が生まれて・・・幸太が生まれて・・・あんたたちと過ごしている間に、そうやって迷っていたことすら忘れてたの。」
「忘れた?」
「そう。子供を育てるっていうのは、まあ大変なことだしね、とても幸せなことでもあるけど。」
私は、母の横顔をそっと覗き見る。
「だけど、後悔したんだ?結婚したこと・・・。」
「後悔じゃないのよ。だけど、迷っていたの。」
「迷った・・・。」
「そう。迷ってた。お父さんと結婚する前、とても好きな人がいたのよ。好きで好きで、どうしようもなかった人が。その人と、再会したことがあったのよ。」
母が、恋をしていた。
母だって女性だ。当たり前のことなのに、どこか遠い国のニュースを聞いているような気分になった。
「その人のところに行きたかったの?」
「うーん。どうだろう。・・・だけどね、私にとって悠子や幸太は、目や耳や鼻や口や・・・そういうものと同じなのよ。あんたたちがいるから、幸せを感じることができるし、生きていることを実感できる。それを失ってまで何かを得ても、私には幸せを感じる手段をなくしてしまうのと同じこと。」
母が、少しため息をついて言葉を続ける。
「お父さんもね、そんな宝物を一緒に守ってきた相手だものね。お父さんと離れるっていうことも、私はできないと思ったの。」
「・・・その人とはどうなったの?」
「どうにもなりはしないわよ。ただ、私がほんの少し迷って、うじうじ過去のことを思い返しただけ。」
私は、じっと母の表情を見つめていた。
静かに、平凡に過ぎていたと思っていたこの家での時間。
だけど、母の心の中は、密やかに燃えていたのかもしれない。
過去に愛した男と再会し、「もしも」の人生を、幾度となく心でなぞっていたのだろう。

「お父さんだって、そんなことがあったかもしれない。20年以上一緒にいるんだから。」
母は、そう言ってくすりと笑った。
「お父さんが?」
「そりゃそうよ。20年間、誰とも出会わず生きていくことなんて無理なのよ。20年の間に、たくさんの人に出会っただろうし、その中には、心惹かれる人もいたかもしれない。」
「だけど、二人はやっぱり一緒にいるのね。」
「一緒にいるわね。」
私と母は、顔を見合わせて笑った。
そして、父と母がこの家に居てくれてよかったと、心から思った。
これが、二人にとって最良の道だったのかどうかはわからない。
たくさんの「もしも」をなぞったり、少し迷ったりしながら、そのたびにこの家を、この家族を守ることを選んできたのだろう。

「悠子は、どんな結婚をするんだろうね。」
そう言って、母が私の左手を握り締めた。
「素敵な指輪じゃないの。」
薬指の指輪を見て、母は目を細める。
「お母さん・・・私、結婚しようと思う。」
「相手は?どんな人なの?」
「取引先の営業マンで、すごく真面目で優しい人よ。」
そう言って俯いた私の身体を、母がそっと抱きしめてくれる。
「私は、悠子が幸せになれるのなら、どんな生き方でも構わないと思ってる。悠子が愛する人と結婚したいと言うなら、世界で一番祝福したいと思ってるよ。」
「ありがとう、お母さん。でもね・・・私も・・・少し迷ってるのかもしれない。」
母が身体を離して、また私の左手をそっと握った。
「迷ってるときはね、どちらの道を選んだとしても後悔は付いて回るものなのよ。あのとき、ああしてれば・・・ってね。だけどね、悠子にとって、その彼が本当に大切な人で、失くすことができない人ならば、きっと幸せになれると思う。私が、悠子や幸太を生んで幸せだと思えたようにね。」
健介のことを、そっと思い浮かべてみる。
そうだ。健介は、私にとって失うことのできない人だ。
かけがえのない人。
なのに、どうしても心の中に広がる何かを振り払うことができずにいる。
それが、石場と過ごした2ヶ月の間に生まれたものなのか、「結婚」という現実に対する不安なのか、よくわからない。

私の顔の輪郭や目は、この母によく似ている。
体型も、髪質も母から貰ったものだろう。
そして、腹が立つと押し黙ってしまうクセや、少し寒がりなのは父親譲りだろうか。

彼らの生き方に、反発していた時期があった。
そして、その結果として私はこの家を出て行った。
つまらない、退屈だと決め付けていた、そんな生き方。
表面には見えなかっただけで、両親の心の中にはたくさんの波や渦が生まれ、そのたびにうまくやり過ごしたり、苦しんだりしてきたのかもしれない。

あなたのように、生きられるでしょうか。

心の中で、そっと母に問いかける。

私は、「結婚という結果を出した」と、ナオは言った。
悩み、迷いながらも、今の私はその結果に助けられている。
「結婚」というお土産を持っているから、この家に帰ることが、家族と向き合うことがとても楽になった。
何も持たずに、この家に戻ってくることは、私にとって苦痛でしかなかったのだ。

健介のこと、会社のこと、懐かしい友達のこと・・・。
私と母は、ひとしきり話し続けた。
夜が更けて、幸太の鼾が廊下に響き渡る頃まで、母の作ってくれた熱いコーヒーやスープを飲みながら。
懐かしく、どこか切ない気持ちにさせる、母の笑顔をじっと見つめながら。

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