第四章 To be or not to be-12 |
年が明けた。 何も変わらないようで、何もかもが大きく変わる今年。 父は相変わらずゲームに興じ、幸太は毎日のように誰かと出かけている。 お年玉と言って、携帯の電話代の足しにといくらか渡してやると、そのお金を握って、また幸太は出かけていってしまった。 そして、私の元にはナオが訪ねてきた。 同じ高校だったナオの実家も、うちの近くにあるのだ。 お互い帰省しているということで、少し会おうという話になった。
正月の街は静かだ。 冷たい空気がぴんと張り詰めて、時折すれ違う車がそれをかき乱しては、また静かに張り詰める。 「あの公園で、逆上がりの練習したのよ。」 私は、少し遠くに見える公園を指差して笑った。 「あ、私はあっちの公園でやったわ。」 ナオは、もう少し離れた公園を指差す。 私たちは、この辺りを久し振りに散策しようと家を出てきていた。 「行ってみようか。あの公園。確か、少し高台だから景色が良く見えるわよ。」 私は、幼い頃に通った公園にナオを誘った。 「ブランコでも乗っちゃう?」 「鎖がちぎれたら、相当ショックね。」 私たちは、声を合わせて笑う。 自販機で暖かいコーヒーを買い、ポケットに詰め込んで私たちは公園へ入った。 ベンチに並んで座り、フェンスの向こうに広がる景色に目を奪われる。 「結構あちこち変わってるけど、こうやって見ると、昔のままなのね。」 ナオが、タバコに火を付けてから言った。 「昔よくここで遊んだけど、景色をじっくり見ようと思ったことなんてなかったわ。」 「そういえばそうね。こうしてタバコを吸いながら、景色を眺める日が来るなんてね。」 「コーヒーをおいしいと思う日が来るとも思ってなかったわ。」 私も、少し笑いながら言った。 子供の頃、親から少し貰って飲んだコーヒーの味を思い出す。 なんだか苦くて、おいしそうに飲む親が不思議で仕方なかった。これは、大人の味なんだとずっと思っていた。 コーヒーの缶を頬に当てながら、街の風景をじっと見つめる。 「あ、うちの小学校あれだ。悠子のとこは、あっちのあれでしょ?」 ナオが指差す方向を見ると、通っていた小学校のグラウンドを夕日が照らしていた。 ぼんやりと、遠くのグラウンドに金色の雲が伸びているのを見ていると、なぜか鼻の奥がつんとしてきた。
ランドセルを背負って、毎日通った小学校。 廊下で弟とすれ違うのが恥ずかしくて、お互いに目を逸らしたりした。 昼休みにはしゃぎ過ぎて怪我をした私を心配して、保健室に駆け込んできた母の顔も覚えている。 家庭科の授業で作ったエプロンを、母にプレゼントするとすごく喜んでくれた。 それからずーっと、私が高校に入学する頃までそのエプロンを使ってくれていた。 いろんな思い出が、一気にあふれ出してくる。 父と手を繋いで、この公園に来たこと。 ブランコで、ずーっと背中を押してくれたこと。
知らないうちに、私の頬を涙が幾筋も伝っていた。 ナオは、じっと黙ってフェンスの向こうを見ている。 ナオの胸の中にも、いろんな思い出があふれ出しているのかもしれない。 ナオも、この街から、生まれ育った家から飛び出したのだ。 自分の夢を追いかけて、自分の力で何かを成し遂げようとして。 私は、コートの袖口で涙を拭った。
私は、この街を飛び出して何を得たというのだろう。 何を残してきたというのだろう。 一体、何を求めてこの街を出たのか、あの家から逃げたのか。 一人暮らしを始めた当時は、自立への不安や憧れ、自由を手に入れたという満足感でいっぱいだった。 親の束縛から逃げさえすれば、自分は何でもできると思い込んでいた。
何から逃げたかったのか。 愛しい思い出に溢れた、この街、あの家から、どうして逃げたいと思ったのだろうか。 すぐ近くに住んでいたくせに、どうしてこんなにこの風景が懐かしく、胸が苦しくなるのだろう。 もうすぐ、福岡に行くからだろうか。 どんなに歩いても、この景色にたどり着けない場所へと行かなければならないからなのか。 一人暮らしのあの部屋で、窓の向こうの景色すらまともに見ていなかったくせに。 この風景を、懐かしがったことなどないくせに。
ナオが、タバコを一本差し出してくれた。 それを受け取り、火をつけてもらう。 「ナオの夢は、進行形だもんね。まだこの先に続いていくのよね。」 「まあね・・・。」 「私は、健介と結婚する。ここを出て、私が見つけた答えはそれだったのね。」 私は立ち上がって、フェンスにそっと寄り添う。 ゆっくりと、暮れていく空までもが愛しい。 今ならば、この景色から、あの家族から逃げたいだなんて思わないのに。 ずっと抱きしめて、大切に生きていきたいと思うのに。 コーヒーの空き缶に吸殻を落とすと、じゅっと小さな音を立てた。
タバコの火と一緒に、自分の中の何かもそっと消えた気がした。 それが、二年前からずっとわだかまっていた家族への遠慮のようなものなのか、自立への憧れなのか、石場への思いなのか。 答えは見つからなかったが、それでいいのだと思った。
「行こうか。うちでお母さんがナオの分も御飯作って待ってるわよ。」 コーヒーの空き缶を、ゴミ箱に放り投げると、私とナオは並んで家路を急いだ。
|
|