第四章 To be or not to be-13 |
父の運転する車で、私は実家を後にした。 ゆうべ、家族との食事の最中に結婚について報告した。 前もって話をしていた母は、終始にこやかだったが、父は言葉少なにただビールを飲んでいた。 賛成するとも反対するとも言わず、はっきりとした返事も貰えないまま、こうして車に乗っている。
「福岡か・・・。」 父が、ハンドルを握りながら小さな声で言った。 「うん。福岡。」 「三月か・・・。」 「そう、三月。」 それっきり、また沈黙が続いてしまった。 これといった話もできないまま、私の住むマンションが近づいてきた。 少し手前の路肩に車をつけ、父がシートベルトをそっと外した。 「悠子。」 「なに?」 「お前を22で嫁に出すとは、思ってもいなかった。」 父が、そう言って窓を細く開け、タバコに火を付けた。 「だけどな、お前は早く社会に出て、こうして自立した生活をしてるだろう?よその娘よりずっとしっかりしていると思う。これは、俺の誇りだ。」 「お父さん・・・。」 「そんなお前が選んだことだから、きっと間違いはないとも思う。」 「お父さん、私、勝手なことばっかり言って、家を飛び出して・・・何も・・・何もできなくて・・・。」 私の言葉は、自分の涙にかき消されていた。 一体、どうしてしまったというのだろう。 年末からずっと、私の涙腺は緩みっぱなしのようだ。 父や母のちょっとした言葉や仕草、表情に胸が詰まってしまう。 これほど、両親を恋しく、いとおしく思ったことなどなかったのに。 「まあ、とりあえず相手の男に会わせてくれ。あまり時間もないようだしな。」 父はそう言って、私の肩を軽く二度ほど叩いた。
父と別れて部屋に入り、空気を入れ替えようと窓を開けたところで携帯電話が鳴った。 「もしもし。健介?」 「ああ。どうだ?もう帰ってるのか?」 「うん。今部屋に戻ってきたところ。私も健介に電話しようと思ってたの。」 私は、ベッドに腰掛けて膝を抱えた。 帰省中も、何度か電話で話をしていた。 健介の方も、きちんと家族で結婚について話し合ったらしく、近いうちに私が向こうへ挨拶に行くことになるだろう。 「どうだった?ご両親は・・・。」 「うん。ゆうべ話したの。健介に会わせて欲しいって。」 「まあ、そりゃそうだな。俺がどんな男か分からないうちは、良いとも悪いとも言えないだろうし。」 「健介は?もう東京に戻ってるの?」 「ああ。だから、ちょっと会えないかなあ?と思ってるんだけど。」 「いいわよ。どうする?」 「外で晩メシでも食いながら話そうか。もう夕方になりそうだし。」
健介と外で会う約束をして電話を切り、私はそのまま壁際にもたれていた。 「あまり時間もないようだし」という、父の言葉を思い出す。 そう。もう時間がないのだ。 今更何を懐かしんでも、恋しがっても、私も未来も変わらない。 部屋の隅に置かれた、水色の紙袋に視線を移す。 ティファニーの紙袋。 あの中には、年末に石場からもらったシルバーのピアスが入っている。 忘れることなどできないのだろう、と思う。 だけど、忘れたつもりで生きていくのだ。 そう思うと、急激に彼の声や姿に触れたくなった。 あと何度、あんな逢瀬を続けることができるのだろうか。 年末に求め合ってから1週間も経つのに、私の身体は鮮明に彼の指がたどった場所を覚えている。 私の名前を、あの声で、身体中に響くような声で呼んで欲しい。 そして、私も熱くなった身体から夢中で声を絞り出し、彼の名を叫ぶのだ。 つま先に手を伸ばし、剥げかけたペディキュアをそっとなぞってみる。
もし、今ひとつだけ願いが叶うとするならば。 私は迷わず、今の生活を捨てるのだろう。 そして、健介も、石場も存在しない世界へ行きたい。 たった一人で生きられる私になりたい。 退屈な日常から逃げ出したいと思っていたくせに、心のどこかでときめきを求めていたくせに。 恋が、ただ輝いて色鮮やかなだけのものではないと知っていたくせに。
相手を欲しいと思った瞬間から、恋は重苦しい暗闇を連れてやってくるのだ。 こんなものが、欲しかったわけじゃない。
だけど、もう遅いのだ。 私は、彼を欲しがっているし、手を伸ばしてしまっている。 掴もうとしても、掴みきれず、掴むわけにもいかず、もがいているのだ。 伸ばした手を引っ込めるタイミングすら分からない。
ああ、そうか。 私は、やはり石場に恋をしていたのだ。 どうしようもなく、惹かれてしまっているのだ。 どんな理由を並べ立てても敵わないくらい、彼が欲しくて堪らない。
だけど、「結婚なんてもうどうでもいい」と思いかけた私の心を、父や母の笑顔や言葉が引き留めている。 その力は思った以上に強くて大きくて、その力に私は育てられ、守られてきたのだと愕然とする。 そして、私の心を引き留めるのが健介ではなく、両親だったことにも軽くショックを覚えた。
神様、降参です。もう悪あがきはしません。
そう言いたい気持ちになった。 もう、時間はないのだ。 遠回りも、悪あがきも許されてはいないのかもしれない。
それでも、あと少しだけ。 あと少しだけ、彼との時間が欲しい。
私は、床に置かれたティファニーの袋を引き寄せ、ピアスをそっと両耳に付けてから、出かける準備を始めた。
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