お互いの両親への紹介も済ませ、私と健介との結婚話は順調に進んでいた。 健介の両親は、健介同様穏やかな人たちで、緊張気味の私を暖かく迎えてくれた。 急な転勤でばたばたと結婚をしなければならないことを、何度も私に侘びてくれたりもした。 うちの家族も、人当たりの良い健介を嫌うはずもなく、恐いくらいに全てが順調だった。
だが、結婚への準備が着々と進む中、石場に対する私の気持ちは少しずつ形を変えつつあった。 手放さなければならないという事実が、はっきりと目に見えてくればくるほど、彼を思う気持ちが募っていくのを感じた。 一日の中で、心の中に彼の存在を感じる時間が増え、出会って間もない頃のようなときめきすら感じた。 あの、痺れるほど甘い痛み。 今の私にとって、彼に抱かれているときが最も満ち足りた気分になる瞬間だった。 だけど、それでも、私の欲望の全てを満たすことはできないのだ。 石場壮一と、高原健介。 私にとっては、二人で一つなのだ。 私の中に棲む雌は石場を求め、それを包み隠して生きる小川悠子という名の22歳のOLは、健介を求めているような気がした。
健介に抱かれているとき、将来について語り合っているとき、私の中の雌はそっと目を開く。 胸をかきむしるような声で石場の名を呼び、私の全身を揺さぶるのだ。 そして、石場に抱かれながら甘い声を聞いていても、「お前じゃダメだ」と冷酷に笑う私も存在している。 そんな矛盾した二つの感情に振り回されているとき、私は今までに感じたことのない快感に浸る。 まるで、セックスを覚えたばかりの少年のように、何度もその感情の波に溺れ、耽る。
「部長、お話があるんですが。」 始業後すぐ、私の直属の上司である総務部長にそっと声を掛けた。 「おっ。別室がいいか?」 「そうですね。」 「じゃあ、会議室にでも行こうか。」 部長が立ち上がり、私の前を歩いていく。 廊下に出る直前で、ファイルを抱えた真奈美とすれ違う。 一度も目を合わせることはなかったが、背中に視線を感じていた。 私はこれから、部長に結婚の報告をするのだ。 退職の時期などを相談しなければならない。 普段はなんとなく避けていた真奈美の視線だが、今日の私は彼女に凝視されることを期待していた。 何かを感じればいい。 私と部長が並んでいるということ、改まって話をするということに、私に約束されたものの大きさを知ればいい。
「結婚することになりました。」 私と部長は、会議室の端に少し離れて座っていた。 「おお。高原くんか?」 「はい。そうなんです。」 やはり、私と健介の仲は皆が知るところとなっていたのか。 何も後ろめたいことはないが、他人の予想通りの結婚をするということに、少し居心地の悪さを感じた。 「で、いつ?」 「実は、まだ正式な辞令は出ていないんですが、彼が4月から福岡支社に転勤することになりまして。」 「もうすぐじゃないか。」 部長は、少し身を乗り出して言った。 「ですので、3月末から私も一緒に向こうへ行くことになると思います。」 「そうかあ。じゃあ、2月いっぱいくらいで退社になるのかな?」 「急な話で申し訳ありません。」 私は、部長に頭を下げた。 「いやいや。おめでたい話だしね。まあ、引継ぎさえきちんとしてくれれば、何も問題はないから。」 「はい。よろしくお願いします。」
私がこの会社を辞めたところで、誰も困りはしない。 他人にできないような難しい仕事なんて、何もしていないのだから。 同じ事務を担当している女子社員が、ほんのわずかの間少し忙しくなるだけで、この会社は何も変わらず動いていくのだろう。 そう思うと、自分が4年近くやってきたことなんて、たかが知れたものだ。
「結婚式は、いつだい?こっちでやるのか?」 「もう、何しろ急な話なので、取り急ぎ籍だけを先に入れるつもりなんです。生活が落ち着いてから、改めて結婚式をしようと思ってます。」 「まあ、そうなるだろうね。」 「その際には、部長にもお世話になることがあると思いますが、よろしくお願いします。」 「もちろん、力にならせて貰うよ。高原くんには、世話になってるんだからね。」 そう言って、部長はにやっと笑った。 薄っぺらい、いやらしい笑顔だ。 多分、あと半年もすれば遅ればせながらの挙式や披露宴をやることになるだろう。 その席には、この形ばかりの薄っぺらい笑顔も並ぶのか。 ああ。式場の予約もしなければならない。 まだまだ、健介と相談しなければならないことがたくさんある。 「じゃあ、二月末で退社ということで手続きさせてもらうよ。有給も少し残ってただろう。退社のときに消化してしまいなさい。」 「お気遣いありがとうございます。」 私が頭を下げると、部長が立ち上がって会議室を後にした。
部長が去った後の会議室。 私は椅子に座ったまま、窓の外にじっと目をやった。 この見慣れた景色とも、あと一ヶ月ちょっとでお別れだ。 高校を卒業して、18のときにこの会社に入った。 私に仕事を教えてくれたのも、いつも一緒にお昼を食べたのも、真奈美だった。 その真奈美と、こんな奇妙な関係になるなんて誰が想像できただろう。 だけど、何もかもあと一ヶ月ちょっとで終わる。 私は、結婚するのだ。この単調でくだらない仕事から解放されるのだ。 3つも年上の真奈美より、私は先に選ばれていく。 思わず笑いが込み上げそうになって、ぐっと飲み込む。
セックスフレンド? バカじゃないの。 あんたがそんなことしてる間に、私は誰もが認める真面目でスマートな男と結婚するのよ。 壮ちゃん?それがどうしたの。 その男は、私のことも優しく抱くのよ。
これから待っているのが、平凡で退屈な毎日だっていいじゃないか。 それすら掴めない女より、ずっとましだ。
椅子から立ち上がろうとすると、ポケットに入れていた携帯が振動した。 石場からのメールだ。
「今夜、時間作れそうですか。少し会いませんか。」
いつも通り、少しそっけなくよそよそしい文面。 だけど、その後に続く甘い時間を十分に期待させてくれるメール。
私は携帯電話を握り締めて、小さく笑った。
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