ナオの仕事が終わった後、私たちはナオのサロンの近くの店で食事をしている。 他の友人の近況や、ナオの店に来る客のことなどをひとしきり話した後で、ナオが姿勢を正して切り出した。 「で、その指輪。結婚するってことなのかな?」 「んー。まあ、多分ね。」 私はそう言って、ジントニックを一口飲んだ。 「多分って何なのよ。あの彼とでしょ?取引先かなんかに勤めてる・・・。」 「そうそう。その彼。」 「そうかあ。悠子が結婚ねえ。なんか、ピンと来ないわ。」 ナオが、複雑な顔をして首を傾げる。 「おめでとう」ではなく、「ピンと来ない」という言葉が出たあたりが、ナオらしいと思った。 自分でもピンと来ない結婚なのだから、ナオがそう言うのも良く分かる。 ナオには、取って付けたような祝福の言葉や、その場を取り繕うような笑顔は似合わない。 だからやっぱり、「ピンと来ない」で正解なのだ。 「私には、ナオみたいな人生の目標がないからね。まあ、いずれはこうやって結婚するものだろうとは思ってたけどね。」 「やあねえ。年寄りみたいなこと言わないでよ。」 ナオが笑いながら、タバコに火を付けた。 「ナオが羨ましいのよ。私なんて、毎日目的もなく同じことの繰り返しみたいな人生送ってんのよ。かと言って、将来何がしたいわけでもできるわけでもないんだし。」 ナオは何も答えず、タバコの煙をゆっくりと吐き出した。 「ナオ、ほんとに夢に向かってるんだなって今日思ったよ。前に来たときよりも、マッサージもうまくなってるし。」 「何言ってんのよ。悠子だって、結婚するんでしょ?すごいことじゃない。私、悠子が結婚する日が来るなんて思ってなかったもん。」 「私も、自分が結婚するなんてね。でも、他の生き方なんてよく分からないもの。」 私は、手に持っていたジントニックのグラスを一気に空ける。 店員を呼び、同じものをもう一杯頼んだあとで、私は少しずつ話し始めた。
「親にあれこれ指図されるのが嫌で、高校出てそのまま就職して・・・。でも、結局これと言って何も残せないのよ。ただ毎日、朝起きて、会社に行って、誰にでもできるような事務の仕事をして・・・。この仕事だって、別に自分がやりたかったことでも何でもない。ただ、自分にできることがこれしかないからやってるようなもんよ。」 「悠子・・・。それは、私だって同じなのよ。」 ナオのいつもの低い声が、さらに低くなる。 「私だって、夢を追って大学を辞めたけれど、それも今思えば、大学で過ごす毎日から逃げただけなのかもしれない。サロンを持つ、エステティシャンになるって夢のせいにして、逃げただけなのよ。」 ナオの吐き出すタバコの煙が、細く立ち上って薄紫のベールを作る。 「毎日、みんなと同じことをして、他人と似たような将来を生きるのが嫌だなんて思ってたけれど、結局今やってることなんて、みんなと少しも変わらない。朝あの店に行って、ノルマのように毎日決められた仕事をして、ただ疲れ果てて家に帰る・・・その繰り返しよ。」 ナオは、顔にかかった長い髪を邪魔そうにかき上げる。 ジンのロックを一口飲んだあと、大きくため息をついて言葉を続けた。 「恋愛をしたって、毎回同じような理由でうまくいかない。忙しくて会う時間が少ないから、仕事以上に夢中になれないから・・・そうやって、恋愛からも今は逃げてる。」 「逃げてる・・・?」 「そう。逃げてるのよ。本当は、仕事からだって逃げたいときもある。こうやって毎日、決められたように生きていくことが窮屈で、逃げたくて仕方ないのよ。だけど、私はもう、今更ここまで築き上げてきたものを捨てる勇気もないのよ。」 ナオはそう言って、クスクスと笑った。 「夢のため、だなんて大きなことを言って大学まで辞めて始めたことなのに、投げ出しちゃったら、私もう居場所がなくなっちゃうじゃない。」 ナオはもう一口ジンを飲んで、私をじっと見る。 「あんたは、なんだかんだ言って、結果出したじゃない。結婚っていう結果をね。」 「・・・これが、結果なのかしら。」 「違う?それともあんたは、もっと違う何かを求めてる?」 「そんな気もするわね。」 私は、ナオの言葉に首をすくめて答えた。 そんな私を見て、ナオが少し微笑む。 「あんたはさっき、人生の目的がないって言ったけど、私だってそんな高尚なもの持ち合わせちゃいないわよ。」 「ナオには夢があるじゃない。サロンを持つって自分の夢が。」 「それも、今となっちゃよくわからないのよ。ただ、乗ったレールから外れるわけにはいかないから、少し意地になってるだけかもしれないわ。今更来た道を戻るようなこと、するわけにもいかないしね。」 ナオの言葉を聞いて、私は少し考えた後でジントニックを一気に飲み干す。 そして、ナオと同じようにジンをロックで頼んだ後で、また少し考える。
石場の話をしてみようかと思った。 今まで誰に話すこともなく、また、話すわけにもいかなかった話。 高校時代に好きな男の話をしたように、なんとなく話してみようか。 ナオはどんな顔をするだろう。 昔のように、ニコニコ笑って、少し興奮しながら聞いてくれるのだろうか。 ナオならば、「結婚する相手がいるのに、そんなことをしてはいけない」とか「二股を掛けるような真似をするな」とか、分かり切った陳腐なセリフは言わない気がした。 そして、今自分では見えていない何かを、指し示してくれるような気もしたのだ。 私は、少し間を置いてから石場と過ごした2ヶ月間について、ナオに話し始めた。
話を聞き終わったナオは、私の顔を見て軽く笑った。 それは、馬鹿にしたような笑いでもなく、ただ純粋におかしくて笑った顔だった。 「悠子は生真面目なのね。うんうん。昔からそういうとこあるわ。」 「真面目?私が?」 「そう。生真面目。クソ真面目。」 今ナオに話したことと、ナオが口にしたセリフがどうしても噛みあわなくて私はとまどっていた。 男と浮気した話を聞いたあとで、「真面目だ」なんて。 「まあ、福岡に行くんだったら、もう会えなくはなるわねえ。」 「うん・・・。向こうへ行って、自分がどうなるのか全然想像が付かないのよ。」 「忘れるわよ。その男のことは。」 ナオは、タバコを吸いながら事もなげに言った。 「時間が経てば、あー、そんな男もいたなーってなもんよ。」 「そうなのかな。」 「そうよ。ただ、今のまま向こうに行けば、あんたはいつまでもその男のことをねちねち考えるでしょうね。生真面目だから。」 ピンクベージュに彩られたナオの唇が、グラスの氷をそっと吸い込む。 「毎日つまんないなーと思ってたところに、たまたまイイ男が現れて、ふらふらっと少し楽しんだ。飲みに行って、もう一軒!みたいなもんね。それだけのことなのよ。なのに、あんたは生真面目なもんだから、目いっぱい真面目に遊んじゃったわけよね。」
ナオの言葉に、少しはっとした。 そう。ただの遊びなのに。 どうして、私はあれこれと思い悩んでいるのだろうか。 「状況のせいもあるわよね。相手は、職場の女と付き合ってる男だしさ、あんたも結婚までするっていう相手がいるしさ。」 「うん・・・。」 「いいじゃない。なるようになるのよ。っていうか、なるようにしかならないわよ。」 ナオは、私を見てもう一度笑う。 「大体、どうして絶対結婚しなきゃならないって考えるわけ?その辺も、あんたクソ真面目ね。」 「だって・・・。この先目的もなく、だらだらと今の仕事続けていくわけ?そりゃいいわよ。あと何年かのことなら。でもさあ・・・。」 「人生に目的がなくちゃいけないっていうのも、あんたらしいわね。なーんの目的もなく、ぶらぶらと行くのも楽しいもんよ?長い人生、そういう時間もありだと思うけど?」 「うーん。なんだか、わかんなくなってきちゃったじゃない。」 「だから、何を小難しいこと考えてるのよ。結婚したきゃ、すればいいのよ。それとその男とは、何の関係もないんだから。」 ナオが、またけらけらと笑う。 「その男に関しては、職場の女に対する対抗心も差し引いて考えないとダメね。そこを差し引いちゃったら、案外大したことない男かもしれないじゃないの。」 ナオのその言葉は、私の胸に深く響いた。 ずっと、自分の中で感じてきたことだ。 だけど、認めることはできなくて、ずっと見ぬ振りをしてきた感情だった。 つまらない女だと思っていた真奈美に、対抗心を抱くなんて。 そう。私はずっと、真奈美を自分より「格下」だと思っていたのだから。 3つも歳上なのに、いつもへらへらしていて、「結婚したい」が口癖のような女。 ただ大人しくて、誰かの妻になるためだけに毎朝化粧をしていたような女。
「彼氏のことは、好きなんでしょう?」 「うん。好き・・・。」 「だったら、付いていっちゃえばいいじゃない。向こうに行ってからのことなんて、行ってみなくちゃわからないわよ。それに、一人で行くわけじゃないんだから。彼も付いてるんだし、なんとかなるもんよ。」 「・・・ナオ、タバコちょうだい。」 「どうぞ。」 ナオは、にっと笑いながらタバコを差し出す。 一本受け取って口に咥えると、ナオが火をつけてくれた。 「まあ、結婚はしない。だけど、彼氏とも別れないって選択もあるにはあるんだから。」 「へっ・・・?」 「離れちゃったらダメになるかもしれないし、遠距離恋愛じゃあんたも寂しいだろうけどね。」
健介と離れる・・・。 私は、自分の吐き出した煙を見つめながらぼんやりと考えてみた。 健介の頼りなさに苛付いたときも、石場と出会ったときも・・・結婚という現実にとまどったときも、福岡へ行くと告げられたときも。 私は、健介と離れるという選択肢を用意したことはなかった。 私にとっての健介という男は、常に私に愛情を注ぎ、どんなときにも傍にいて当たり前の存在だった。 だけど、「結婚をしない」という選択は、私にとってその当たり前の事実が揺らいでしまうということだ。 遠距離恋愛、もしくは、別離。 それが、心の中ではっきりと具体的な言葉となって現れた瞬間、私は自分が想像以上に健介に依存していたことに気がついた。
「健介と離れるのは、無理だと思うわ。私。」 自分の気持ちを、なんとなく口に出してみる。 まるで、自分で自分の気持ちを復習し、なぞるように。 「まあ、そういうことなら。」 ナオが、グラスを右手に持ち、私の前でぐっと傾けてみせる。 「悠子、結婚おめでと。で、いいんだよね?」 「・・・ありがとう。」 笑っていいのか、困ればいいのか。 どんな顔をすればいいのかわからないまま、私はナオとグラスを合わせた。 グラスを握り締めた左手の薬指には、健介がくれた指輪が光っている。 生真面目だろうが、なんだろうが。 私には、健介が必要なのだ。 健介と離れないための手段の一つとして、今度の結婚は私にとって正しい選択のはず。 そして、石場と会えなくなるという現実も、自分なりに受け入れていくしかない。 そう。石場と出会う前の自分に戻るだけだ。 ナオの、何かを見透かすような笑顔の前で、私は何となく居心地の悪さを感じるしかなかった。
店の前でナオと別れ、私は最寄の駅に向かってゆっくりと歩き出す。 酔った身体に、冷たい風が心地良く吹き付けてくる。 昨夜ほどではないにせよ、クリスマスの街はまだ何となく浮かれた様子で、たくさんのカップルとすれ違う。 電飾に彩られた並木を見上げながら歩いている私の視線の端に、一組のカップルが通り過ぎた。 隣の男に腕を絡め、べったりと寄り添っていた女を見て、私は思わず後ろを振り返る。
私たちの視線がぶつかる。
女も、男の腕にしがみついたまま私を振り返っていた。 そして、少し濡れたような唇でゆっくりと微笑む。
そのまま、何事もなかったように肩を並べて歩いていく二人の後姿を、私はじっと見つめていた。 イルミネーションがきらきらと反射していた、彼女の濡れた唇。 ピンクのリップグロスに彩られた彼女の唇は、はっきりと私を見て笑った。
真奈美・・・。
真奈美の隣にいたのは、見知らぬ男だった。 石場では、なかったのだ。 駅に向かって歩く足を早めながら、最近の真奈美の様子を思い返していた。 以前とは雰囲気の変わった真奈美を見ながら、きっと恋人ができたのではないかとずっと考えていた。 デパートで、じっと紳士用のパジャマを見つめていた真奈美を見て、石場にプレゼントするつもりなのだろうと思っていた。 真奈美は、石場以外の男と付き合っているのか。
だからどうしたと言うのだろう。 真奈美が誰と付き合おうが、私の今の状況も生活も何も変わらない。 そして、真奈美の相手が石場であったとしても、私と石場の間で、どんな変化があるというのか。 胸の奥に薄い霧がかかったような感じがして、思わず軽く目を閉じる。 瞼の奥には、妖しげに微笑むピンク色の唇。
関係ないじゃないの。 私は、自分に言い聞かせる。 春になれば、何事もなかったように私は福岡に行くのだ。 真奈美とも、石場とも、全てと切り離された世界へと旅立つのだ。
春になれば。
私は、地下鉄の駅へと続く階段を下りながら、何度も心の中で繰り返した。
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