■純恋愛
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第四章 To be or not to be-8
私の勤める会社は、今日で仕事納めだ。
毎年恒例の忘年会で、私はこれで3日連続酒を飲んでいることに気付き、半ばうんざりしていた。
こういう、職場がらみの飲み会は疲れるのだ。
終始周りに気を使い、大しておもしろくもないのに声を出して笑ってみせたりしなければならない。
いくら飲んでもちっとも酔わず、ただひたすら、下手なカラオケに手拍子をしたり、上司のありふれた説教をもっともらしく頷いて聞いたりする。

「二次会、行くぞー。」
会計を終えると、営業担当の男たちが大きな声を張り上げた。
私は、さりげなく皆の輪から外れ、帰る意思を嫌味なく見せることに集中していた。
「悠子、これからちょっといい?そこの喫茶店でいいんだけど。」
上司に挨拶をしていた私に、真奈美が声を掛けてきた。
「どうしたの・・・?」
「ん。ちょっと、悠子と話がしたいのよ。そんなに時間は取らせないから。ね?」
笑顔で私の腕を掴む真奈美。
どんな話があるというのだろう。
石場のことか。それとも、ゆうべ一緒に歩いていた男のことか。
私は、少し警戒しながら頷き、真奈美と共に近くの喫茶店に向かって歩き始めた。

店の一番奥の席に向かい合って座り、コーヒーを注文したところで、真奈美が私の前に一枚のハンカチを差し出した。
「これ、悠子のでしょ?」
「え?ああ・・・たぶん。」
それは、私が少し前に失くしたと思っていたハンカチと、同じ柄のものだった。
「一ヶ月くらい前に拾ったんだけど、ずっと渡すのを忘れてたのよ。今日で、仕事納めでしょう?今日こそ忘れずに渡さなくちゃと思って。」
「あ、ありがと・・・。」
私はハンカチをバッグに納め、テーブルに置かれた水を一口飲んだ。
空気が、重い。
ただこれだけのために、真奈美は私を誘い出したのか。
「そのハンカチね、すぐ悠子のだってわかったの。同じ匂いがしたから。」
「・・・匂い?」
「そう。悠子が付けてた香水の匂い。」
真奈美は、そう言ってにっこりと微笑んだ。

店員が、私たちの前にコーヒーを運んでくる。
それに砂糖を入れながら、真奈美は言葉を続けた。
「ほら、一度香水の匂いさせて会社に来たことがあったでしょう?」
真奈美の言葉に、私はあの朝のことを思い出す。
石場の車で、会社に送ってもらったあの朝。
真奈美がまっすぐに立ったまま、朝帰りの私を見つめ、冷たい笑顔で挑発したあの朝。
「覚えてない?悠子が、壮ちゃんの車で会社にきたあの朝よ。」
・・・壮ちゃん?
一瞬誰のことだかわからなかったが、石場の名前が壮一だったことを思い出し、私は思わず息を呑んだ。

やはり、真奈美は見ていたのだ。
あの朝、私が誰と一緒にいたのかを。

「やあね。そんな顔しないでよ。」
真奈美が、コーヒーを飲みながらくすくすと笑う。
「やっぱり、あの朝見てたのね。」
私は、喉の奥からやっと、それだけの言葉を搾り出した。
「悠子が、いつもとは逆の方向から歩いてくるからおかしいなーと思ってたら、その後ろを彼の紺色の車が通り過ぎていったのよ。」
真奈美は、ずっと笑顔を崩さない。
どうして笑っていられるのか。
あんなに惚れていた男じゃなかったのか。
その男が、他の女と一晩中一緒にいたというのに、どうして笑っていられるというのだ。

ふと、ゆうべのことを思い出す。
真奈美は、石場ではない男と寄り添って歩いていた。
甘い雰囲気の中で、腕を絡ませ、身体を預けて。
あの男がいるから、もう石場のことはどうでもよくなってしまったのか。
なのに、真奈美は彼のことを「壮ちゃん」と呼んでいた。
以前よりも、確実に石場との距離が縮まったということではないのか。
真奈美が、何を考えているのかわからない。
あんなに単純で分かりやすい、「ありがちな女」だったくせに。

「真奈美、彼氏ができたのね。」
「え?」
私の言葉に、真奈美が眉をぐっと上げてみせた。
「ゆうべの・・・。」
「ああ、あれ?彼氏なんかじゃないわよ。やめてよ。」
真奈美が、少し大きな声で笑う。
ひとしきり笑ったあとで、真奈美は声をひそめた。
「セックスフレンドよ。もう一年になるかしら。」
「えっ・・・?」
セックスフレンド・・・。
その言葉の響きは、真奈美の持つ雰囲気とはまるでちぐはぐなものだった。
「悠子には話したことなかったもんね。まあ、職場の知り合いだから、そんな話できるわけもないし。」
真奈美は、コーヒーを少し飲んで、また話しはじめた。
「まあ、でも。私も悠子も同じ男に抱かれてる仲なんだから、今更隠したって仕方ないものね。表面を取り繕っても白々しいだけだし。」

自分の目の前にいる女が、私が知っている「中村真奈美」という女と同一の人物だとは思えなかった。
今まで私が見てきたのは、「職場仕様」の真奈美だったというのか。
地味で、大人しくて、つまらない女だと思っていたが、それは全て真奈美にそのように見せられていただけだったのか。
「さっきのハンカチ、壮ちゃんの部屋のソファの隙間に落ちていたのよ。」
真奈美は、バッグからタバコを取り出し、一本咥えてそれに火を付けた。
「私、初めて彼の部屋に行った日、ソファでエッチしたの。だって、ベッドは悠子の匂いがしたんだもの。悠子が抱かれたシーツの上でするなんて、なんだかねえ。」
私は、真奈美の話をただ黙って聞いているしかなかった。
頭の中で、今までの真奈美と今目の前にいる真奈美とが、うまく噛み合わないのだ。
「悠子の残り香がイヤで、わざわざあんな狭いソファでエッチしたのに、結局悠子の匂いがするもの拾っちゃって。」
真奈美が、そう言ってけらけらと笑う。

「石場さんとは・・・いつからなの?」
「そうねえ。悠子が朝帰りしてきた日の何日か前に、飲みに行ってその帰りにホテルに行ったのよ。それが最初。」
私が抱かれるよりも先に、真奈美は石場と関係を持っていたのか。
その事実が、私の胸の中に重い鉛のような感情を生み出していく。
「ハンカチ拾った日以来ね、彼の部屋に行ったらまず、ベッドメイキングをするの。シーツもカバーも全部替えちゃうのよ。だって、悠子を抱いたあとのベッドで抱かれるなんて、絶対にイヤだから。」
真奈美は、少し首をすくめて笑う。
「でね、帰りにもベッドのカバーを全部替えて帰るの。私が抱かれたベッドで、悠子がまた抱かれるのがイヤ。だから私、彼の部屋に行った日は二度もベッドメイキングをするのよ。」
私はずっと、真奈美の言葉をまるで暗号か何かを解読するかのように聞いている。
この女は、何を言っているのか。
私にこんなことを聞かせて、一体何を思わせようとしているのか。

「石場さんのことが、好きなんでしょう?」
私は、身体中に広がる感情を抑えながら静かに言った。
「ええ、好きよ。」
「だったらどうして、ゆうべの彼みたいな人と会うのよ。」
私の言葉を聞いて、真奈美がまた大きな声で笑い出す。
「悠子が私にそれを聞くの?おっかしいわねえ。」
真奈美は私をじっと見つめ、笑いをかみ殺すように言葉を続ける。
「だったら、悠子には高原くんって彼がいるのに、どうして壮ちゃんと会うの?」
私は、真奈美の言葉に思わず黙り込んでしまう。
「悠子が一番良く分かってるはずよ。私が壮ちゃんだけじゃ、満足できない理由。」
そう言った真奈美の口元はにこやかに笑みを浮かべていたが、その目は、確かに笑っていなかった。
あの朝と同じ、私を射抜くような目でじっとこちらを見ている。

「で、高原くんとはうまくいってるの?」
真奈美は、ことさら明るい声でそう切り出した。
「結婚するのよ。」
「うん。それはそう言ってたじゃない。前から。」
「そうじゃなくて、本当に結婚するの。福岡に行くのよ。」
私は、少し強い口調で言った。
真奈美が、吸っていたタバコを灰皿に押し付ける。
「高原くん、転勤でもするの?」
「そう。だから、私も付いていくのよ。」
「ふーん。じゃあ、いよいよ本当に結婚なのね。」
真奈美の笑顔が、私に突き刺さってくるような錯覚を覚える。
「私は結婚するんだ」と、何度でも繰り返し言ってやりたい気分になっていた。
結婚願望をいつも口にしていた真奈美。
それが、彼女の本当の気持ちだったのかどうかは今となってはわからないけれど、それでも、私はそれを口にすることで、真奈美の笑顔を打ち崩してやりたいと思った。
「あー、私、結構本気で悠子たちの結婚式楽しみにしてたのにな。こんなことになっちゃったんじゃあ、呼んでもらえそうにないわね。」
真奈美が、そう言ってまた声を出して笑う。
「いつなの?結婚式。」
「三月の終わりには、福岡に行かなくちゃいけないから、しばらくは無理ね。」
「そっかあ。じゃあ、あと三ヶ月ほどで会社も辞めちゃうのね。」
「そうなると思う。」
「まあ、お幸せにね。」

真奈美の心にもない言葉を聞きながら、私の苛立ちは髪の先まで充満しているように思えた。
こんなに、誰かの笑顔や声を憎々しく感じたことはないだろう。
灰皿に転がっている、タバコのフィルターについたピンクの口紅。
こんな可憐な色に彩られた唇から、私を突き刺すような笑い声を上げ、言葉を吐くのか。

春になれば。

私は、また心の中でそっとつぶやく。
春になれば、この女とも二度と会うことはなくなるだろう。
春になれば、私には「結婚」という儀式が待っているのだ。
この女が、欲しいと口にしながら、まだ手に入れることができないもの。

春になれば。

私は、目の前で話している女を見つめながら、心の奥でそっと笑った。

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