■純恋愛
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第五章 無明-2
退職まで日がないせいか、私は思った以上に引き継ぎの仕事に追われていた。
平日は残業もするし、週末は春からの新生活の準備や挙式の段取りなどに忙しい。
正直、あれこれと考える暇もあまりなくて助かっている。

「小川さん。」
営業さんが、私を手招きしている。
「なんでしょう?」
「これ、高原くんとこに持って行く書類なんだけど、小川さんに行かせろって部長が言うんだよ。」
「え?」
書類を受け取って困っていると、総務部長が私の隣にやってきた。
「あちらの会社にも、一応挨拶しておくといいかなと思ってね。小川さんも最近残業が多いし、今日はこの書類届けたら直帰してもらっていいよ。受け取りの確認だけ、電話もらえれば。」
「いいんですか?」
「まあ、いくらうちと取引の多い会社とは言っても、小川さんは高原くんの上司とは面識がないだろう?転勤もすることだし、一応ご挨拶しておくと感じもいいだろうしね。」
部長はそう言いながら私の肩を叩いて、自分のデスクへと戻って行った。
「部長もああ言ってるし、直帰しちゃいなよ。これからまだしばらく、忙しい日続くだろうしさあ。」
営業さんは、苦笑いしながら言った。
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
「気を付けて行っておいでよ。場所はわかる?」
「はい。駅のそばだし、大丈夫です。」
「じゃ、よろしくね。」

健介の会社へと向かう電車の中、私はぼんやりと考えていた。
今日、健介は上司に私を紹介するだろう。
さっき会社にも電話して、私が行くと伝えてある。
きっとその心積もりでいるはずだ。
こうして、一つずつ逃げ道を閉ざされていくのか。
今更、逃げるつもりなんて毛頭ない。これでいいのだと思っている。
それなのに、どうしてこんなに不安を感じるのだろう。
世の中の結婚を控えた女性は、こんなとき何を思って過ごすのか。
ただただ、愛する人と結ばれる喜びでいっぱいなのか。
私は、幸せだと思う。
何もかも順調に進んでいるではないか。
どうして、胸の奥にいつまでも靄がかかったような気分になるのかわからない。
納得しているのに。結婚したいと思っているはずなのに。
私という女は、欲望の全てが満たされなければ満足できないのか。
こんなに欲深かったとは、自分でも知らずにいた。
何もかも、貪りつくしてやらないと気が済まないのか。
こんなこと、思ったこともなく生きていたのに。
「それなり」の人生を、「それなり」に生きてきたくせに。
疲れているはずなのに、身体も心もどこか冴えてぎらぎらとしているのだ。
「まだ欲しい」と、私に訴えかけてくるのだ。
それでも、見ない振りをするしかない。満足したつもりで、福岡へ行く。
母が、心に寄せる波をうまくやり過ごしてきたように、私もやっていくつもりだ。
私は、母の娘なのだから。
結婚すれば、福岡に行けば、そのように生きていけるはずだ。
そっと目を閉じて、小さなため息を一つついた。





健介に書類を手渡し、彼の上司に軽く挨拶を終えてから、私は会社を後にした。
何のことはない。
あっさりとした通過儀礼のようなものだ。
仕事が残っていた健介と少し話した後、私はこのまま一人で部屋に帰ることにした。
駅で切符を買おうと財布を握って立っていると、背後から声を掛けられた。
「悠子さんですよね?」
振り向くと、見覚えのある男が愛想よく笑って立っていた。
「ええと・・・。」
「中島です。以前、石場と一緒に食事に行きましたよね?」
「ああ、長野の。」
「お久し振りです。お元気でした?」
そうだ。
初めて石場に会ったあの夜、一緒にいた彼の同級生だ。
「うちの本社が、この近くなんですよ。今日は会議で出てきてるんです。」
「ああ。そうなんですか。お疲れ様です。」
「悠子さんは?この近くにお勤めですか?」
「いえいえ。今日はちょっと、おつかいを頼まれちゃって。もう帰るところなんですよ。」
「あ、だったら少しお茶でも飲みませんか?新幹線の時間まで、あと少しあるんですよ。」
人懐こい中島の笑顔に、私は何だか癒された気がして軽くうなずいた。

駅前の喫茶店で、私と中島は向き合って座っている。
石場と同じ歳とはいえ、彼は随分落ち着いて見える。
老けて見えるというわけではないが、彼の後ろには所帯や背負っているものが見えるのだ。
「あの人、元気ですか?悠子さんのお友達の・・・。」
「ああ、真奈美ね。元気にしてますよ。」
「石場とうまくいったのかなあ?あの人、石場のこと気に入ってたみたいだったけど。」
「さあ、どうだろう。」
私は、曖昧に笑って答えた。
「今日は、石場さんとは会わないんですか?」
「うん。俺、今忙しいからね。今日もこの後一度会社に戻らないといけないし。」
「今から?」
「そう。今から長野に戻って、会社に行かないと。」
中島は、そう言って苦笑いをした。
「大変ですねえ。」
「中間管理職はつらいよ。悠子さんの会社にもいるでしょ?俺みたいにくたびれた管理職が。」
「中島さんほど、ステキじゃないですけどね。」
「うまいなあ。勘違いしそうだよ。」
中島は、割と端整な顔立ちをしている。若い頃は、きっと女からも人気があっただろう。
だけど、石場の持つような色気は感じなかった。
ただ、格好がいいだけの男。
それも少し疲れ、くすんだ感じの。
「俺には、石場みたいなビジネスの才能がないからね。こうして、会社の歯車として生きていくしかないさ。」
「石場さんって、やっぱり商売上手なんですか?」
「若い頃は、そんな風には見えなかったけどね。あいつ、大学卒業してすぐ大手のレストランチェーンに就職したんだよ。」
「そうなんだ。」
私の知らない、若い頃の石場の話だ。
毎日、仕事の引継ぎや結婚の準備などで交わす会話などより、ずっと興味がある。
「そんなに熱心にやってる風でもなかったけど、好きな仕事だったんだろうな。独立して、ああいう店を経営してるってことはさ。」
中島は、そこまで言ってタバコに火をつけた。
「あ、そうそう。あいつ、タバコ吸わないだろ?あれもさあ、食い物の味が分からなくなるからなんだって。だから、仕事はかなり真剣にやってると思うよ。そういう風に見えないのが、あいつのすごいとこだけど。」
「なるほどねえ・・・。」
友達とは、こんな風にいろんな話をするのか。
当たり前のことだが、不思議でたまらなかった。
誰か、知らない人の話を聞いているような気がした。
「何に関しても、そうなんだよ。あいつ、割と気さくに何でも話すけど、考えてることが今いち読めない。」
「うん。そういう感じですよね。」
「だろ?あいつが何かに夢中になってる姿とか、あんまり記憶にないんだ。しいて言えば、前の嫁さんを口説いてたときくらいかな。」
「前の奥さん?」
「そう。確か悠子さん、婚約者がいるって言ってたよねえ?」
「はい。今度結婚することになって・・・。」
「そうなんだ。おめでとう。」
中島が、そう言って手を差し出した。
私も、笑いながらその手をとって握手をする。
「そうそう。あいつの前の嫁さんにも、なんとなく将来を誓い合ってた相手がいたんだよ。年上の女だったからさあ。」
「へえ。」
何気ない顔をしながらも、私は緊張していた。
ずっと聞きたくて、聞けずにいた石場の結婚の話。
まるで、薄目を開けてサンタクロースを待つ子供のように、覗きたくても覗けなかった石場の過去。
「結局奪い取るような形で付き合いはじめて、子供ができて結婚して・・・。ちょうど、就職した頃のことかな。」
「そんなに若くで結婚したんだ。」
「うん。だけど、子供が生まれてすぐ離婚してしまった。」
「どうしてですか?」
「あいつ、家に帰ってなかったからね。ちっとも。」
中島は、そう言って笑った。
「子供さんは?」
「前の嫁さんが育ててるよ。彼女ももう再婚したんじゃなかったかな?」
「へえ・・・。」
喉が渇いて仕方なかった。
私は水を一口飲み、中島の次の言葉を待つ。
「あいつはねえ、目の前にあるものが全てなんだよ。他の男から女を奪って、そのまま付き合って、子供ができて、結婚して・・・っていう過程なんて、見えてないんだよ。」
中島の言葉に、今の自分と石場の関係をそっと重ねていた。
「今」が全て。目の前にいる、お互いが全て。
これはきっと、石場の持つ、恋愛のクセのようなものなのかもしれない。
「ドラマを欲しがる男なんだよなあ。恋愛に。」
「ドラマ?」
「ただ付き合って楽しいだけじゃダメなんじゃないのかな。こう、何か常に刺激を求めてるっていうかね。だから、目の前のことしか考えないんだよ。目の前で起こってるドラマが全てなのさ。女に惚れるんじゃないんだよ。ドラマに夢中になってるんだ。俺はそう思う。」
中島の言葉は、いちいち私と石場の関係に当てはまっていた。
そして、それはそのまま今の私自身にも言えることだった。
「あいつは、結婚はしちゃダメだな。ドラマが終われば、また他のドラマを探しに行くんだから。ないときは、自分で作り出してしまうしね。」
中島は、屈託なく笑って言った。

初めて出会った夜、私の薬指の指輪をそっとなぞりながら、石場は笑みを浮かべていた。
この指輪に、彼はドラマを見つけたのかもしれない。
「婚約者がいる女」に近づき、そっとその女の心を揺さぶる・・・。
きっと、別れた妻にも言ったはずだ。
「彼とは、結婚しないよ」と。
真奈美と関係を持ったのも、私の同僚だったからだろう。
そうして、女同士のしがらみを複雑にさせることでドラマを盛り上げたのだ。
女たちはみんな、彼とともにそのドラマを演じながら、その筋書きに、演出に夢中になるのだ。

なんて自分勝手で残酷な男なのだろう。
だけど、その残酷さがたまらなく恋しかった。
彼の見せるドラマに、もっと浸りたいと思った。
彼の恋は、それが日常の一部になってしまった瞬間に幕を閉じるのだろう。
ドラマではなく、現実になってしまえば終わり。

私たちのドラマは、どんな風に終わっていくのか。
私の結婚で幕を閉じるのか、それとも・・・彼がこの恋に日常を感じてしまうのが先か。
現実的で煩雑なビジネスの世界と、非日常的な恋愛。
相反する二つのものに夢中になっている彼。
そんな彼は、私そのものでもあるのだ。

なんだか、クロスワードパズルを解き終えたような気分になった。
それを解いた先に何が待っているわけでもないのに、夢中で謎を知りたくなる。
だけど、解いてしまえばなんてことはない。
謎の結末を覗いてしまえば、「サンタクロースはパパ」だったりするのだ。
謎解きなんて、つまらない。
分からないから、「ドラマ」がある。

私の中で、何かがそっと終わっていった気がした。
それは、石場への恋心が消えたのとも違う。
ただ、遥か遠くの月に憧れるような、そんなときめきが密かに消えただけのこと。
以前より月が近くなれば、そこに触れてみたくなる。月に向かって飛んでみたくなる。

あと少し。
彼の心に大きな足跡を付けて去りたい。
いつまでも、その足跡をなぞって懐かしむような、そんな歴史を刻みたい。
ドラマが終われば、忘れるだなんて許さない。
終わらせたりなんてしない。いつまでも、ドラマの続きを待ち焦がれて苦しめばいい。
私は、福岡で小さな幸せを守って生きていく。
薬指の指輪をそっとなぞり、あの日の石場のようにそっと笑った。

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