■純恋愛
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第五章 無明-3
もう、二月も半ばを過ぎていた。
有給休暇が10日ちょっと残っている私は、それを消化して退職することになっている。
だから、仕事に出るのは今日が最後だ。
あとは、二月の末に退社の挨拶をするだけになるだろう。

「小川さん、おめでとう。」
一緒に事務をしていた女性が、私にビールを注ぎにきた。
「ありがとうございます。」
「小川さんがいなくなったら、寂しくなるわね。だけど、高原くんとならきっといい家庭が築けると思うわ。」
30代半ばの彼女は、結婚して子供もいる。
普通に当たり障りのない会話を交わす程度の関係だったが、そんな相手でも、もう会えないのかと思うとちょっとしんみりしてくる。

今日は、私の送別会であり、結婚祝いの飲み会でもある。
健介も呼ばれ、うちの会社の社員たちに頭を下げたり飲まされたりしているようだ。
「悠子、俺もう飲めねえよ。」
健介が、苦笑いしながら私の隣にやってきた。
「随分飲まされたわね。」
「まともに食いもしないで、酒ばっかりだよ。」
「これ、食べて。」
私の前にあったお皿を、健介に勧める。
「うん。ちょっとでも食うわ。悪酔いしたくないし。」
食事を口に運ぶ健介を横目で見ながら、私はこの広い座敷を見渡していた。
座敷の端にいた真奈美と、目が合った。
真奈美は少し私に笑いかけてから、ビールの瓶を持ってこちらに歩いてくる。
「悠子、おめでとう。」
真奈美が、私のグラスにビールを注ぐ。
「ほら、高原くんも。おめでとう。」
「あ、ありがとう。」
健介のグラスにも、ビールが注がれる。
「とうとう結婚ね。付き合い始めた頃からずっと見てた二人だから、私も嬉しいわ。」
優しい声で話しているが、感情なんてこもっていないのだろう。
私も、うわべだけの微笑みを浮かべながら真奈美をじっと見ていた。
「悠子に先を越されちゃったから、私も頑張って後を追わないとね。高原くんみたいな、優しいいい男を捜すわ。」
そう言って、真奈美は健介の肩をぽんと叩いた。
健介は、何も答えず黙々と食事をしている。
「真奈美には、ステキな彼がいるじゃない。」
「恋愛と結婚は別よ。」
真奈美の不敵な微笑み。
最後まで、私の感情を逆撫でする女だ。
「悠子はうまくやったわね。高原くんなら、結婚相手に申し分ないじゃない。仕事もできるし、真面目だし・・・一途だし。」
真奈美は、ちらっと横目で健介を見る。
「褒めすぎだよ、中村さん。俺、なんだか居心地が悪いよ。」
健介はそう言って、少し笑った。
「悠子を、他の男にさらわれないようにしっかり捕まえておきなさいよ。」
「誰もさらったりしないよ。」
「わからないわよ。どこで、誰が悠子を見ているか。」
「恐いこと言わないでくれよ。」
「恐いなら、大事にしなきゃね。悠子が他の男に取られないように、ちゃんと見てなきゃ。」
なんなんだろう。この会話は。
まるで空々しくて、いらいらする。
言いたければ、言えばいいのに。おもしろいじゃないの。
私には、他に男がいますって言えばいいじゃない。
あんたの恋人と寝た女だって、言えばいい。
私は、グラスのビールを一口飲む。
真奈美は、いくら私に腹が立っていてもそれだけは言えやしないのだ。
自分の男と私が寝ているだなんて、言えるはずがない。
私が、真奈美をバカにしているのと同じで、きっと真奈美も私を見下しているのだろう。
そんな女に自分の男を寝取られたなんて、口に出すのもイヤなはずだ。

「おい、高原くん。」
営業の社員に呼ばれ、健介が席を立った。
健介が向こうに行ってから、真奈美がそっと顔を寄せてきた。
「あんたは、とんでもない女ね。その真っ黒い腹の中を、高原くんに見せてやりたいわ。」
言っている言葉と、彼女が浮かべている表情がかみ合っていない。
私は何も答えず、軽く微笑んだ後でまたビールをあおる。
「真奈美も、結婚すればいいじゃない。石場さんと。」
あまりにも現実離れしたことを言ってしまい、私は思わず吹き出してしまった。
「あんたがいなくなれば、そういうこともあるかもしれないわね。」
真奈美はそう言い残して、自分の席へと戻って行った。

バカな女だ。
何もわかっちゃいない。
石場にとっての真奈美の価値なんて、私あってこそのものなのに。
私の同僚でなければ、ただの普通の女じゃないか。
そこに、ドラマなんてありはしない。
普通のOLとの火遊びに過ぎない。
そして、私の価値も真奈美と健介があってのもの。
あの男は、私や真奈美のことなんて見ちゃいない。
私たちの背後にある、いろんなしがらみやドラマを見ているだけなのだ。
ずっと気付かずにいればいい。
私がいなくなって、あんたに価値がなくなっても、ずっと気付かずにいればいい。
彼が消えても、その理由すら分からずにおろおろと泣けばいい。

何も知らずに、営業の男子社員とメニューを見て話している真奈美。
彼女も今、石場に溺れているのだろう。
他の誰と寝ても、あんな甘い空間や全身を震わせるような快感は味わえるはずがないのだから。
当たり前のことだ。真奈美もまた、石場が見せてくれるドラマに夢中になっているのだ。

私と石場のドラマが途切れるとき、それは真奈美の恋の終わりを意味するのだ。
あんたたちと別れても、私には平穏で幸せな生活が待っている。
残された二人が、いつまでも彷徨っている姿を思い浮かべる。
見所なんて残されていないドラマの中で。
いくら探しても、そこには心が痺れるような甘さなんてない。
ただ、終わりに向かって情熱を失っていく心と身体があるだけだ。

さよなら、真奈美。

私は、心の中でそっとつぶやいて、グラスのビールを一気に飲み干した。

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