■純恋愛
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第五章 無明-4
有給に入って、一番最初の土曜日。
今日は母とともに、都内の親戚の家へ結婚の報告に来ていた。
母の姉にあたる伯母は、母に良く似た笑顔で私を祝ってくれた。
数年前に親戚の告別式で会ったきりだが、あまり老けた様子もなく元気そうにしていた。
結婚をするということは、こういう付き合いも増えてくるということなのだろう。
都内に伯母がいるということすら、今までの私は忘れて暮らしていた気がする。

伯母の家を出て、駅前で母と別れた。
この近くに、健介の部屋がある。
最近は、デートといえば私の部屋に来ることが多かったし、健介の部屋なんてもう3ヶ月以上行っていない。
引越しまでは、まだ少し時間があるが、仕事が忙しくて荷作りまで手が回らないだろう。
今日、少しでも整理して帰って、これから手伝ってあげよう。
今の私には、たくさん時間があるのだ。

健介の住むハイツに向かって、商店街を歩き始める。
付き合い始めて間もない頃、彼の部屋へ行く前によくここで買い物をした。
角の酒屋でビールを買い、この先のスーパーで食事を作る材料を買い込んだ。
二人でカートを押して、夫婦気取りで楽しかった。
あの頃描いたささやかな将来像が、今ゆっくりと現実になろうとしている。

ハイツの階段を上り、健介の部屋の前に立つ。
電話もせずにいきなりやって来たが、健介はいるのだろうか。
インターホンを押すと、すこしくぐもった声で健介の返事が返ってきた。
「私。悠子よ。」
しばらくして、少し驚いた顔の健介がドアを開けた。
「どうしたの?」
「この近くの親戚の家に挨拶に来てたのよ。この辺りに来るのも久し振りだし、健介の顔を見て帰ろうと思って。」
「ああ、まあ、上がれよ。」
健介に促されて、私は玄関に足を踏み入れる。
そのとき、タバコの匂いに混じって、甘い花の香りが鼻をついた。

トレゾア。

トレゾアの香りだ。

私の背筋を、冷たいものが通り過ぎる。
喉の奥が、大きく脈を打つ。
無言のままで部屋に入ると、起きたときのままのベッドの上にパジャマが脱ぎ捨てられているのが目に入った。

見覚えのある、グリーンのパジャマ。

クリスマス直前のデパートで、あのパジャマをじっと見つめていた真奈美の横顔を思い出す。

「いつからなの・・・。」
私は、声の震えを隠すこともせず小さな声で呟いた。
「えっ?」
「真奈美とは・・・いつからなのよ・・・。」
「あ・・・どうして・・・。」
背中を向けているので、健介がどんな顔をしているのかはわからない。
だけど、私だけじゃなく、健介の声も震えているのは分かる。
「今度だけじゃないでしょ?いつからなのよ。」
私は、ゆっくりと健介の方へ向き直る。
「11月の・・・終わりごろから・・・。」
健介は、立ちすくんだまま俯いて答えた。

11月の終わり・・・。
私は石場と結ばれ、甘い逢瀬を重ねていた。
その頃、健介も真奈美とそんな時間を過ごしていたというのか。
真奈美を抱いた腕で私を抱き、真奈美を見つめた目で、私を見ていたのか。

「その口で・・・私と結婚したいなんて言ったのね。」
私は、健介の身体を力いっぱい突き飛ばした。
「真奈美にキスしたその唇で、私にキスしたのね。結婚しようって言ったのね。」
何度も健介を突き飛ばし、大きな声で叫び続けた。
「あのパジャマもらって嬉しかった?ふざけんじゃないわよ。なんで真奈美なのよ。」
倒れこんだ健介を、思いっきり蹴り付けた。
「悠子の様子が・・・」
言いながら、健介がゆっくりと立ち上がる。
「悠子の様子がおかしかったから、中村さんに相談してたんだよ・・・。何か、悩みでもあるのか、俺への気持ちが冷めてるんじゃないかって・・・。」
「それがどうして、こんなことになるのよ。」
「話を聞いてもらってるうちに、中村さんが・・・その・・・。」
健介は、そこまで言って黙り込む。

健介の相談を受けながら、真奈美は私の浮気を打ち明けたくて仕方なかったに違いない。
私と健介の仲を裂く、大きなチャンスだったのだから。
自分の好きな男と寝た、憎い女の幸せを打ち砕くチャンスだった。
だけど真奈美は、私の中の雌にダメージを与えつつ、自分自身の優越感を満たす方法を選んだのだ。
健介に抱かれながら、真奈美は私の影を感じていたに違いない。
そして、優越感と背徳感に酔い、束の間の甘い時間を過ごしたのだろう。
私が、石場とそんな時間を共有していたように。

「真奈美を抱きたかった?気持ちよかった?二人で私を裏切って、心の底でドキドキハラハラ楽しんでたんじゃないの?」
「そんなことはないよ・・・俺は、悠子を愛してるんだよ・・・。本当だよ・・・。」
健介は、ベッドに座りこんで頭を抱える。
わかるよ、健介。
非日常って、魅力的だものね。いけないことだって分かってても、甘くて、気持ちよくて、ついつい引き込まれてしまうよね。
だけど、許さない。
真奈美だけは、許さない。

私は、ベッドの上に無造作に散らばったパジャマを掴み、健介の顔めがけて放り投げた。
「よく似合うわよ。その色。」
「ごめん、悠子・・・でも、なんで・・・。なんで俺と中村さんのことも、このパジャマのことも・・・。」
「分かるのよ。分かりたくなかったけど、分かってしまったのよ。」
あの日、真奈美は健介のためにプレゼントを選んでいたのだ。
石場には決して似合わない、このグリーン。
真奈美は、このパジャマを着た健介を思い浮かべながら、じっと手に持って見つめていたのか。

「一人で福岡にでもどこへでも行けばいいじゃない。それとも、真奈美と一緒に行く?」
「何言ってるんだよ。俺が愛してるのは、悠子だけだよ。」
「心の中で、私と真奈美を比べた?何度比べた?」
私は、健介を睨みながら言葉を浴びせた。
「真奈美と比べてどうだった?身体は?魅力は?どうだったのよ。」
「ごめん。悠子。比べたりしたわけじゃないんだ。ただ、俺・・・悠子が変わってしまったようで寂しくて、それで・・・。」
「真奈美には、他に男がいるのよ?」
「知ってる・・・。」
「知ってて抱いたの?真奈美なんかに遊ばれて、あんたも情けない男ね。」
私の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。

健介は、私が浮気をしていることを知らない。
だけど、ずっと感じていたのかもしれない。
私が、以前の私ではないことを。甘いドラマに、うたかたの夢に溺れていたことを。
健介が、私を愛してくれていることは分かっている。
私が、石場に抱かれながら健介への愛を感じていたように、健介もまた、真奈美を抱きながら、その向こう側にいる私への愛を感じていたのだろう。
私が石場に会うのと同じ気持ちで、健介は真奈美を抱いていたのかもしれない。
それでも、許せないのだ。
真奈美だけは、あの女だけは。

「バカみたいね。私は、真奈美のセックスフレンドと結婚しようとしてたのね。」
涙が止まらない。
何が悲しいのか、寂しいのかなんて、よく分かっていなかった。
ただ、これはただの浮気なんかじゃないのだ。
それが悔しくて、悲しくて、どうしようもなかった。
「悠子・・・俺たち、もうダメなのかなあ・・・。」
健介が、そっと顔を上げて私を見つめた。
私はそんな健介に背を向け、玄関に向かって歩き始める。
「ダメかもしれないね。」
そう言い残し、トレゾアの香りが残る部屋を後にした。

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