タクシーを降りてしばらく歩くと、名刺に書かれたビルを見つけることができた。 一階はダイニングバーになっている。これも石場の経営する店だろう。 ビルの中へと入り、エレベーターでオフィスのあるフロアへ向かう。 軽く酔っているのだろう。足元が少しふらついている。 だけど、意識は冴えていた。 悲しいくらい、心は冷めていた。 エレベーターが静かに止まり、フロアに降り立つ。 降りてすぐのところに、石場のオフィスの名前が書かれた看板があった。
このドアを開ければ、彼に会える。 ほんの束の間でも、全てを忘れることができるかもしれない。 私は、すがるようにドアノブに手を掛け、ぐっと扉を開いた。 「いらっしゃいませ。何か御用ですか?」 少し派手な感じの女性が、私に声をかけてきた。 「あ・・・あの・・・石場さんは・・・。」 「社長ですか?ええと・・・失礼ですが・・・。」 「小川と申します。悠子って言ってもらえれば、わかりますから。」 「小川様ですね。少々お待ちください。」 そう言って、女性は奥にある部屋へ入っていった。
どう見ても、普通のOLに見えない雰囲気だった。 服装こそカジュアルな感じだが、丁寧に施された化粧とそこから匂い立つ空気は、明らかに一般のOLと一線を画していた。 ここの社員なのだろうか。 私は、自分があまりにもみすぼらしい気がして恥ずかしくなった。 少し乱れた髪と、剥がれ落ちた化粧。 バッグも持たず、身一つで飛び込んできた私を見て、彼女はどう思っただろう。 そして、石場はどう思うのだろう。 あの女性も、石場と関係を持っているのだろうか。
「悠ちゃんじゃないか!どうしたの?電話くれればよかったのに。」 石場が、奥の部屋からこちらへと歩み寄ってきた。 「あ、飲んでるの?どこかの帰り?」 「少し・・・飲んでる・・・。」 私は、うつむきながら答えた。 「まあ、とりあえず入りなよ。」 石場に背中を押されながら、私はさっき石場がいた奥の部屋へと案内される。 ソファに座っていると、例の女性がお茶を持ってきてくれた。 「すいません。ありがとう。」 「ごゆっくりどうぞ。」 女性はにっこりと笑うと、静かにこの部屋から出て行った。 「初めてだね。ここを訪ねてくれたのは。」 石場は、私の向かい側に座って優しく微笑んでいる。 彼の声が、酔った身体にじんわりと染みとおる。 「ごめんなさい。仕事中なのにね。」 「いやいや。ここにずっといて、電話を待つのが仕事みたいなもんさ。大したことは何もしてないんだよ。」 初めて足を踏み入れた、彼のオフィス。 私の知らない、彼の空間と時間。 「コート、脱いだら?寒い?」 彼が、軽く笑いながら私に言う。 私はゆっくりとコートを脱いで、彼をじっと見つめる。 「どうしたの?俺の顔、なんか変?」 「となりに・・・座ってもいい?」 「あはは。どうぞ。やっぱり少し酔ってるんだなあ。」 彼は、自分の隣の席をぽんぽんと軽く叩く。 私はゆっくりと立ち上がり、彼の隣に座るとそのまま彼の胸に顔を埋めた。
どうして、こんなに人肌が恋しいのだろう。 甘く響く声や私を抱きとめている腕が、この世界と私をつなぐ唯一のものだと感じた。 健介は、私にとってただの恋人ではなくなっていた。 上司や親、周囲に「結婚する」と告げたことで、私はそれまでの私ではなく、「健介の妻」という認識を持たれるようになっているのだ。 それを失うということは、今まで生きてきた世界と決別するという意味でもある気がした。 ただ、恋人と別れるのとは違うのだ。 私と健介の間には、私たちの気持ちだけではない、雑多な事情がたくさん絡み付いている。
彼は、黙ったままで私の髪をゆっくりと撫でていた。 今、何を考えているのだろうか。 こんな乱れた姿でやってきて、いきなり抱きついたことをどう思っているのだろう。 それとも、私が何を思おうが、何を求めようが興味がないのか。 彼は、私が胸に飛び込めば抱きしめてくれるし、目を閉じれば優しくキスをしてくれる。 だけど、それだけなのだ。 それ以上の何も、私に与えてはくれない。 彼は、私の欲しがるものしか与えない。 なのに、どうしてこんなに惹かれるのだろう。彼を求めてしまうのだろう。
私は、彼を見つめたあとでそっと目を閉じる。 私たちの唇が重なり、私の中の重苦しいわだかまりが少しずつ解けていく。 彼が私を抱く腕に、少し力が入りかけたそのとき、彼の携帯電話の着信音が部屋に響いた。 「悠ちゃん・・・ちょっとごめんね・・・。」 彼は私から身体を離し、デスクに置かれた電話を手に取った。 「もしもし・・・。」 私に背中を向けたまま、彼は話し続けている。 彼の背中をじっと見詰めたまま、私は彼の発したその言葉を聞き逃さなかった。
彼は、小さな声で「真奈美ちゃん」と言ったのだ。
私は立ち上がり、彼の手から携帯電話を奪い取って電源を切る。 「悠ちゃんっ・・・それはダメだよ。ルール違反だよ。」 彼は、真剣な顔をして私の肩を強く掴む。 「どうして?どうして真奈美なの?」 肩に置かれた彼の手を、振り払って少し後ずさった。
また真奈美なのか。 どうしてあの女は、どこまでも私を追いかけてくるのだろう。 どこまで、私を苦しめれば気が済むのだ。 彼との逢瀬を続ける限り、真奈美との縁が切れないのは仕方ないことかもしれない。 だけど、どうして今なのか。 真奈美は、私が取り乱しているのをどこからか見つめているのか。 遠いところから見て、笑い飛ばしているのか。
「おもしろい?私と真奈美は同じ会社の同僚なのよ。ずっと仲良くやってたのよ。そんな二人の心をもて遊んで、楽しい?」 酔いに任せて、私は叫び続ける。 「初めて一緒に過ごしたあの夜、私のことは抱かなかったくせに、その後すぐに真奈美は抱いたのね。私は、真奈美のお下がりを貰ったようなもんね。」 「何を言ってるんだよ、悠ちゃん・・・。」 自分では、そんなことを気にしているつもりはなかったのに。 真奈美の方が彼に先に抱かれたことを、私はこんなに悔しいと思っていたのかと、自分で驚いていた。 言葉にすると、それが余計に私の心を苛立たせた。 「どうして・・・どうして真奈美なのよ・・・。」 私は、その場に崩れ落ちる。
枯れたと思っていた涙が、また溢れ出していた。 「いいかげんにしてよ・・・もう・・・。」 「悠ちゃん・・・?」 彼が、私の肩にそっと手を置く。 「あなたは、私に婚約者がいたから近づいてきたんでしょう?」 「え?」 「おもしろがっていたんでしょう。いろんなしがらみを。」 私は、ゆっくりと立ち上がる。 「だけど、もうそれも終わりよ。私は全部失くしてしまったわ。」 「失くした・・・?」 「大した女よ。真奈美は。私をこんなにぼろぼろにしたんだものね。真奈美がいなけりゃ、あなたに溺れることもなかった。あなたもそうね。真奈美がいなけりゃ、こんな質の悪いドラマになる予定じゃなかったわね。もっと、あなたに都合のいい展開になっていたのにね。」 私は、彼を見て軽く笑う。 「私だって、こんなはずじゃなかったわよ。このまま福岡に行って、母のように静かに暮らすつもりだったわ。」 眉間にしわを寄せた彼が、私の頬の涙をハンカチで拭ってくれる。 「悠ちゃん、そんな顔しないで。」 「したくないわよ。私だって。こんな顔、したくないわよ・・・。」 私は、ソファに置かれたコートを乱暴に掴み、ドアに向かって歩く。 「仕事中に、悪かったわね。」 彼の顔を見るのも辛くなった私は振り返ることもなく、そのままオフィスを去った。
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