■純恋愛
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第五章 無明-6
タクシーを降りてしばらく歩くと、名刺に書かれたビルを見つけることができた。
一階はダイニングバーになっている。これも石場の経営する店だろう。
ビルの中へと入り、エレベーターでオフィスのあるフロアへ向かう。
軽く酔っているのだろう。足元が少しふらついている。
だけど、意識は冴えていた。
悲しいくらい、心は冷めていた。
エレベーターが静かに止まり、フロアに降り立つ。
降りてすぐのところに、石場のオフィスの名前が書かれた看板があった。

このドアを開ければ、彼に会える。
ほんの束の間でも、全てを忘れることができるかもしれない。
私は、すがるようにドアノブに手を掛け、ぐっと扉を開いた。
「いらっしゃいませ。何か御用ですか?」
少し派手な感じの女性が、私に声をかけてきた。
「あ・・・あの・・・石場さんは・・・。」
「社長ですか?ええと・・・失礼ですが・・・。」
「小川と申します。悠子って言ってもらえれば、わかりますから。」
「小川様ですね。少々お待ちください。」
そう言って、女性は奥にある部屋へ入っていった。

どう見ても、普通のOLに見えない雰囲気だった。
服装こそカジュアルな感じだが、丁寧に施された化粧とそこから匂い立つ空気は、明らかに一般のOLと一線を画していた。
ここの社員なのだろうか。
私は、自分があまりにもみすぼらしい気がして恥ずかしくなった。
少し乱れた髪と、剥がれ落ちた化粧。
バッグも持たず、身一つで飛び込んできた私を見て、彼女はどう思っただろう。
そして、石場はどう思うのだろう。
あの女性も、石場と関係を持っているのだろうか。

「悠ちゃんじゃないか!どうしたの?電話くれればよかったのに。」
石場が、奥の部屋からこちらへと歩み寄ってきた。
「あ、飲んでるの?どこかの帰り?」
「少し・・・飲んでる・・・。」
私は、うつむきながら答えた。
「まあ、とりあえず入りなよ。」
石場に背中を押されながら、私はさっき石場がいた奥の部屋へと案内される。
ソファに座っていると、例の女性がお茶を持ってきてくれた。
「すいません。ありがとう。」
「ごゆっくりどうぞ。」
女性はにっこりと笑うと、静かにこの部屋から出て行った。
「初めてだね。ここを訪ねてくれたのは。」
石場は、私の向かい側に座って優しく微笑んでいる。
彼の声が、酔った身体にじんわりと染みとおる。
「ごめんなさい。仕事中なのにね。」
「いやいや。ここにずっといて、電話を待つのが仕事みたいなもんさ。大したことは何もしてないんだよ。」
初めて足を踏み入れた、彼のオフィス。
私の知らない、彼の空間と時間。
「コート、脱いだら?寒い?」
彼が、軽く笑いながら私に言う。
私はゆっくりとコートを脱いで、彼をじっと見つめる。
「どうしたの?俺の顔、なんか変?」
「となりに・・・座ってもいい?」
「あはは。どうぞ。やっぱり少し酔ってるんだなあ。」
彼は、自分の隣の席をぽんぽんと軽く叩く。
私はゆっくりと立ち上がり、彼の隣に座るとそのまま彼の胸に顔を埋めた。

どうして、こんなに人肌が恋しいのだろう。
甘く響く声や私を抱きとめている腕が、この世界と私をつなぐ唯一のものだと感じた。
健介は、私にとってただの恋人ではなくなっていた。
上司や親、周囲に「結婚する」と告げたことで、私はそれまでの私ではなく、「健介の妻」という認識を持たれるようになっているのだ。
それを失うということは、今まで生きてきた世界と決別するという意味でもある気がした。
ただ、恋人と別れるのとは違うのだ。
私と健介の間には、私たちの気持ちだけではない、雑多な事情がたくさん絡み付いている。

彼は、黙ったままで私の髪をゆっくりと撫でていた。
今、何を考えているのだろうか。
こんな乱れた姿でやってきて、いきなり抱きついたことをどう思っているのだろう。
それとも、私が何を思おうが、何を求めようが興味がないのか。
彼は、私が胸に飛び込めば抱きしめてくれるし、目を閉じれば優しくキスをしてくれる。
だけど、それだけなのだ。
それ以上の何も、私に与えてはくれない。
彼は、私の欲しがるものしか与えない。
なのに、どうしてこんなに惹かれるのだろう。彼を求めてしまうのだろう。

私は、彼を見つめたあとでそっと目を閉じる。
私たちの唇が重なり、私の中の重苦しいわだかまりが少しずつ解けていく。
彼が私を抱く腕に、少し力が入りかけたそのとき、彼の携帯電話の着信音が部屋に響いた。
「悠ちゃん・・・ちょっとごめんね・・・。」
彼は私から身体を離し、デスクに置かれた電話を手に取った。
「もしもし・・・。」
私に背中を向けたまま、彼は話し続けている。
彼の背中をじっと見詰めたまま、私は彼の発したその言葉を聞き逃さなかった。

彼は、小さな声で「真奈美ちゃん」と言ったのだ。

私は立ち上がり、彼の手から携帯電話を奪い取って電源を切る。
「悠ちゃんっ・・・それはダメだよ。ルール違反だよ。」
彼は、真剣な顔をして私の肩を強く掴む。
「どうして?どうして真奈美なの?」
肩に置かれた彼の手を、振り払って少し後ずさった。

また真奈美なのか。
どうしてあの女は、どこまでも私を追いかけてくるのだろう。
どこまで、私を苦しめれば気が済むのだ。
彼との逢瀬を続ける限り、真奈美との縁が切れないのは仕方ないことかもしれない。
だけど、どうして今なのか。
真奈美は、私が取り乱しているのをどこからか見つめているのか。
遠いところから見て、笑い飛ばしているのか。

「おもしろい?私と真奈美は同じ会社の同僚なのよ。ずっと仲良くやってたのよ。そんな二人の心をもて遊んで、楽しい?」
酔いに任せて、私は叫び続ける。
「初めて一緒に過ごしたあの夜、私のことは抱かなかったくせに、その後すぐに真奈美は抱いたのね。私は、真奈美のお下がりを貰ったようなもんね。」
「何を言ってるんだよ、悠ちゃん・・・。」
自分では、そんなことを気にしているつもりはなかったのに。
真奈美の方が彼に先に抱かれたことを、私はこんなに悔しいと思っていたのかと、自分で驚いていた。
言葉にすると、それが余計に私の心を苛立たせた。
「どうして・・・どうして真奈美なのよ・・・。」
私は、その場に崩れ落ちる。

枯れたと思っていた涙が、また溢れ出していた。
「いいかげんにしてよ・・・もう・・・。」
「悠ちゃん・・・?」
彼が、私の肩にそっと手を置く。
「あなたは、私に婚約者がいたから近づいてきたんでしょう?」
「え?」
「おもしろがっていたんでしょう。いろんなしがらみを。」
私は、ゆっくりと立ち上がる。
「だけど、もうそれも終わりよ。私は全部失くしてしまったわ。」
「失くした・・・?」
「大した女よ。真奈美は。私をこんなにぼろぼろにしたんだものね。真奈美がいなけりゃ、あなたに溺れることもなかった。あなたもそうね。真奈美がいなけりゃ、こんな質の悪いドラマになる予定じゃなかったわね。もっと、あなたに都合のいい展開になっていたのにね。」
私は、彼を見て軽く笑う。
「私だって、こんなはずじゃなかったわよ。このまま福岡に行って、母のように静かに暮らすつもりだったわ。」
眉間にしわを寄せた彼が、私の頬の涙をハンカチで拭ってくれる。
「悠ちゃん、そんな顔しないで。」
「したくないわよ。私だって。こんな顔、したくないわよ・・・。」
私は、ソファに置かれたコートを乱暴に掴み、ドアに向かって歩く。
「仕事中に、悪かったわね。」
彼の顔を見るのも辛くなった私は振り返ることもなく、そのままオフィスを去った。

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