■純恋愛
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第五章 無明-8
どろりと重い心と身体を抱えたままで、私は健介の部屋の近くの駅に降り立った。
ついこの間、この街に来たときは、またすぐにこんな気持ちでここにやって来るとは思ってもみなかった。
今日は土曜日。月曜日には、私は勤めていた会社に、退職の挨拶をしに行かなければならないのだ。
有給休暇の期間が、もう終わろうとしている。
この機会にきちんと健介と話し合い、今後のことを考えていかねばならない。
私たちの結婚そのものに、白黒はっきりケリをつける必要がある。
答えを出すのが恐くて、ずっと逃げているような形になっていたが、全てを受け止める覚悟はできたつもりだ。
結婚を喜んでいた父や母に合わせる顔がなくなることになるかもしれないが、これが現実なのだから、仕方がないのだ。

昨日、あの日以来初めて健介の電話に出た。
だが、私たちの抱えている問題は、電話で話したくらいで決着のつくようなことではない。
ただの恋人同士の別れ話ではないのだから。
夫婦になろうとしていた二人が、他人になっていこうという瀬戸際なのだ。
健介の部屋で、今日ゆっくりと話し合う約束をした。
あんなことが起きたあの部屋を、敢えて選ぶことにした。
私の部屋では、あまりにも思い出が多すぎるのだ。そして、外で話すには余りにも重い内容である気もした。
私は、石場からクリスマスに貰ったピアスをつけて来ていた。
それは、真奈美に対するささやかな抵抗だったのかもしれない。

商店街を、重い足取りのままゆっくりと通り過ぎていく。
正直、私はまだ迷っているのだ。
健介と離れるなんてことを、考えたこともなかった。
ただの浮気ならば、きっと見てみぬ振りをしただろう。
私もまた、他の男に心と身体を許していたのだから。
結局、似たもの同士の二人だったのかもしれない。
同じように、変わらず過ぎていく日常にささやかな幸せを感じながら、手を伸ばせば届く距離にあるほんの僅かな快楽に思わず手を出してしまった。
魔がさした?出来心?なりゆき?
どれも違う気がする。
私も健介も、自ら望んで手を伸ばした快楽なのだから。

ただ、健介が快楽をともにした相手は、真奈美だったのだ。
あの、真奈美。
私は、バッグの持ち手を思い切り握り締める。
あの女を抱いた男と、私は暮らしていくことができるのだろうか。
嫌悪と憎しみしか生まない、あの女を抱いた男。
そっと耳たぶのピアスに指で触れてみた。

それでも、私は健介を今でも愛しているのだ。
彼の存在に依存し、安堵して過ごしてきたのだ。
彼の部屋へと続く道を一歩一歩踏みしめながら、私は自分の気持ちを決めかねていた。
健介の住むハイツが見えてくる。
私は、軽く深呼吸をしてから、彼の部屋へと続く階段を上り始めた。

階段を上りきると、そこにコート姿の女が立っていた。

「真奈美・・・。」

私の声に、真奈美はゆっくりと振り返り少し微笑んだ。
「悠子じゃない。随分目が腫れてるわねえ。大丈夫?疲れてるんじゃない?」
「誰のせいだと思ってるのよ。」
私がぼそりと呟くと、真奈美はゆっくりと私に歩み寄ってきた。
「心配しなくても、高原くんとはもう切れたわよ。今日は、忘れ物を取りに来ただけ。」
そう言って、真奈美は首元のネックレスを指差した。
ティファニーのネックレスだ。石場に貰ったのだろうか。
同じ店でプレゼントを買うなんて、彼らしくもないデリカシーの無さだと思った。
「悠子が来るって聞いてたから、早い時間に来たつもりだったけど、会っちゃったわねえ。」
真奈美は、そう言ってくすくすと笑った。

瞼を腫らし、疲れた表情であろう私と、余裕の笑みすら浮かべる真奈美。
その状況が、私の苛立ちをさらに増幅させる。
「してやったりと思ってるでしょう。」
「何が?」
「石場さんのことで、私に復讐をしたのだとしたら、大成功だったわね。私は、目がこんなになるまで泣いたわ。さぞ楽しいでしょう?」
「復讐?」
真奈美が眉を大きく動かし、その後に鼻でせせら笑う。
「思い上がらないでよ。私があんたに復讐?あんたなんて、ハナから気にしちゃいないわよ。」
真奈美は、さらに私に歩み寄り私の顔をじっと見る。
「高原くんが、あまりにも情けない顔で助けを求めてきたから、かわいそうになって慰めてあげただけよ。」
「慰めた?慰めで、人の男と寝るの?ふざけんじゃないわよ。」
「あんたに言われたくないわね。浮気するなら、自分の男くらいちゃんと管理しなさいよ。」
真奈美は、ずっと笑みを浮かべたままで話している。
「それにしても、復讐?笑っちゃうわよ。あんた、自分にそれだけの価値があるとでも思ってたの?壮ちゃんと寝たから?あんたも壮ちゃんに慰めてもらっただけでしょ?私が高原くんを慰めたように。つまらなさそうな顔してるから、楽しませてあげようって、それだけのことでしょ?」
「つまらなさそうな顔?」
「そうよ。あんた、毎日つまんないわーって顔してたわよ。毒にも薬にもならないような男と付き合って、くだらない仕事をして、毎日つまんなーいって顔してたわ。」
そう言って、真奈美が肩をすくめる。
「真奈美だって、毎日男が欲しい、結婚したいってそればっかりだったくせに。あんたの方が、ずっとくだらない生活を送っていたじゃない。」
「バカね。男ならいくらでもいるのよ。あんたの「元」婚約者みたいなくだらない男ならね。私は、そんな男と一生暮らしていくなんてまっぴらごめんよ。私はあんたみたいに、妥協なんてしないもの。私は私の理想を追い求めていたのよ。」
「それが・・・石場さんだって言うの?」
「そうかもしれないわね。」

私は、真奈美を見て少し微笑んだ後、小さな声で話し始める。
「石場さんがあんたに近づいたのは、私の同僚だったからよ。」
「はあ?」
「そうでなければ、あんたなんてただのしがないOLじゃないの。そんな女、一晩の火遊びにすらなりはしないわ。」
「そんなこと、なんであんたに言われなくちゃならないのよ。」
「彼は、私に婚約者がいたから近づいてきたのよ。将来が見えている女の心を揺さぶって、楽しんでいたのよ。あんたに手を出したのは、その同僚だったからよ。こうして私たちをもて遊んで、状況を見て喜んでいただけよ。」
話しているうちに、真奈美の表情が変わってきていた。
笑顔は強張り、眉間に小さな皺が寄っている。
「心当たりあるでしょう?彼は、私たちのことなんか見ちゃいないわよ?いくら抱かれても、彼に近づけるはずなんてないのよ。まるで、映画やドラマを観ているみたいに、現実感なんてありはしないでしょう?」
「あんたに・・・あんたにどうして分かるのよ・・・。」
「分かるわよ。私だって、彼と寝たんだから。あんたと同じ立場なんだから。」
そう言って、私は笑った。
「一緒にしないでよ。あんたみたいな我がままで強欲で、腹黒い女と一緒にしないで。」
「仕方ないじゃない。その強欲な女とあんたは、同じ穴のムジナなのよ。」
私の言葉に、真奈美の顔から完全に笑顔が消えた。
「何もかも欲しがる、子供よりもタチの悪い強欲女が・・・何が結婚よ。笑わせるわね。壮ちゃんも欲しい、高原くんも欲しいなんて、そんな女が幸せになんてなれるはずがないじゃない。」
「それはどうかしら。」

やはり、真奈美は嫉妬していたのだ。
いくら余裕のある振りをしても、私が石場との関係を続けながら、結婚までもしようとしていたのが許せなかったのだろう。
それなら尚更、私は健介と結婚したいと思った。
私は、今でも健介を愛しているのだ。
私さえ彼を許せば、私たちの未来にはささやかな幸せが待っているのだ。

「あんたなんか、幸せになる資格はないのよ。それとも、私を激しく抱いた高原くんと幸せになりたい?」
私は、真奈美を見て少し笑ってから、呼吸を整える。
「私、健介と結婚するわよ。だって、健介は私を愛しているんだもの。いくらあんたを抱いても、健介は私を選ぶんだもの。」
真奈美が、鋭い視線を私に向ける。それにかまわず、私は話し続ける。
「あんたは、いつまでも終わったドラマにしがみついていればいいわ。私は、健介と福岡で幸せになるから。」

そこまで言ったところで、私は肩に強い衝撃を感じた。
そこから先の記憶は、何も残ってはいなかった。

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