■純恋愛
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終章 side trip-1
病院のベッドで目を覚ましたのは、知らぬうちに数日が過ぎたあとだった。
あのとき私は健介のハイツの階段から転落し、頭を強く打ったということらしい。
足も骨折したりしていて、割と大きな怪我を負ったようだった。
私が足を踏み外したということになっているようだが、私の肩にははっきりと真奈美の手のひらの感触が残っていた。
どんと突かれた衝撃。
真奈美は、私を殺そうと思ったのだろうか。
殺したいほど、憎いと思ったのだろうか。

私の両親は、健介と少し話し合ったようだった。
私を傷つけてしまったと、健介は両親に詫びた。
「浮気をした」とまでは言わないまでも、健介の言葉から両親は何かを感じたのだろう。
明らかに、結婚の準備で顔を合わせていたころとは、私たちの間に漂う空気が違うのだ。
入院をしてから健介は毎日見舞いに来るが、ただ当たり障りのない会話を交わすだけで、私たちは友人時代に戻ったような雰囲気でもあった。

「どうだ?」
父が大きな袋を提げて、私のベッドを覗きこんだ。
「あ、お父さん。」
「まだ痛いか?」
「んー。やっぱちょっと痛いね。」
私は苦笑いをして、読んでいた本をベッドサイドの台に置いた。
「お見舞い、ケーキやお菓子ばっかりで飽きただろうと思って、果物買って来たよ。」
父はそう言って、手提げ袋からリンゴやみかんを取り出した。
「ありがと。仕事は?」
「まあ、ちょっと抜けるくらいは構わんさ。」
父が、ベッドの横に置かれた椅子にゆっくりと腰掛ける。
「リンゴ、おいしそうね。」
「よし。剥いてやろう。」
「大丈夫なの?」
私が笑いながら言うと、父がゆっくりとナイフを動かし始めた。
「俺だって、昔は自炊したりしてたんだぞ。」
「いつの話よ。」
あぶなっかしい父の手つきを見ながら、私は大きな声で笑った。
入院してから、こうして家族で過ごす時間が増えた。
意識を戻したときの、父の何ともいえない表情は忘れることができない。
泣き出しそうな、怒り出しそうな、今まで見たことのなかった表情。

リンゴの皮をゆっくりと剥いていく父の慣れない手つきを見ていると、なぜか目の奥が熱くなってくる。
「お父さん、貸して。私がやるから。ベッド少し起こして。」
なんとなくしんみりしそうな、自分の気持ちを振り払うように私は言った。
「いや。俺がやるって。お前は怪我してるんだから。」
「足と頭だけだから、大丈夫だって。ほら、ベッド起こして。」
私が言うと、父がしぶしぶベッドを起こすレバーを動かす。
父からリンゴとナイフを受け取り、ベッドの上のテーブルでリンゴの皮を剥き始めた。
「うまいもんだな。」
「当たり前でしょ。もう二年も一人でやってんだから。」
「悠子・・・お前、帰ってこい。」
父は、私の手元をじっと見つめたままで言った。
私も、父の手元に視線を移す。

短い爪、太い指、分厚い手のひら。
さっきまで不器用にナイフを握っていたこの手に、私はずっと守られて生きてきた。
リンゴを剥く手つき同様、不器用でそっけない表情と言葉に、育てられてきたのだ。
そこから、私は逃げ出した。
飛び出し、逃げて、何かを掴もうとあがいていた。
なぜ、あんなに逃げたかったのだろう。
全てを失くした今の私にも、父や母、弟は優しかった。
どうして、何かを掴まなければ帰れないなどと思ったのだろう。
「結果」を出さなければ帰れないなどと、どうして思い込んでいたのだろう。

「うまいなあ。お前に何かをこうして作ってもらって食うのは、初めてだな。」
「いやね。ただリンゴを剥いただけじゃない。」
「いや、うまいよ。うまい。」
父は、私から目をそらしたままで呟いていた。
あんなに長く、一緒に暮らしていたのに。
私は、リンゴひとつ剥いてあげたことすらなかったのか。

「姉ちゃん、どうだよ。」
幸太が、私のベッドの側にそっと入ってきた。
「幸太、学校はどうしたんだ。」
父が幸太を睨みながら言う。
「終わってから来たんだよ。オヤジこそ仕事サボってんじゃねーよ。」
「抜けてきただけだよ。」
幸太は、父のとなりに椅子を出して座り込んだ。
「幸太も、リンゴ食べなさい。」
私が皿を差し出すと、幸太はそれを素手で掴んで口に放り込む。
「姉ちゃんもリンゴの皮が剥けるくらいだから、もう家に戻れそうじゃん。ほら、うちの二階のあの部屋にさあ、マンションの荷物運んじゃえばいいんだよ。オフクロには、テレビを我慢してもらえばいいし。」
幸太はそう言って笑う。
「あんた簡単に言うわねえ。」
「だって、もったいないじゃん。うちに住めるのに、あんな部屋借りて。仕事も辞めたんだし、節約だよ。」
そうか。
もう、私は仕事も失くしているのだ。
こんな怪我までしてしまって、父や母に甘えなければ今後の生活すらあやふやなものだ。
「ていうか、オヤジがゲーム我慢すればいいんだよ。そしたら、オフクロもテレビ見れるし、姉ちゃんもあの部屋を気兼ねなく使えるし。」
「まあ、ゲームくらいは我慢できるさ。いくらでも。」
「お父さん、そんなこと言っちゃっていいの?」
「所詮ゲームじゃないか。」
「所詮ゲームに夢中になってたのは、どこの誰よ。」
私の言葉に、父や幸太が笑い出す。

ああ。
きっと、あの家を出るまでの20年間だって、こんな時間を過ごしていたはずだ。
当たり前で、平凡で、少し退屈な時間。

買い物から戻ってきた母は、父や幸太を見て笑った。
「まあまあ、毎日ご苦労なことね。無欠席じゃないの。」
「二日も意識がなかったんだぞ。心配して当たり前だろ?」
幸太が、リンゴを食べながら言った。
「幸太にも、心配掛けてごめんね。」
「まあ、もうリンゴが剥けるくらいになったんだから、早く帰ってきてオフクロの手伝いでもしてやれよ。」
生意気で、私に反抗ばかりしていた幸太が、こんな言葉を掛けてくれるようになったのか。
家を飛び出していた二年で、幸太はこんなに大人になったのか。
それに引き換え、私はなんなんだろう。
親に心配を掛けて、大学へも行かず家を飛び出して、ただなんとなく二年という月日を過ごしてしまった。
そして、結局何一つ残せず、大きな怪我をして、全てを失った私がここにいる。
「ごめんなさい・・・。」
私は、こらえきれなくなった涙を布団で隠しながら言った。
母が、少し慌てたようにタオルを手渡してくれる。
「私、あんな風に家を飛び出して、たくさん心配掛けて・・・結局こんなことになってしまって・・・。」
「怪我したくらいで、何を弱気になってんだよ。」
幸太が、私の肩を軽く叩いて言う。
「うちに帰ってきてさあ、身体がよくなれば、また先のこと考えればいいんだよ。」
「幸太の言うとおりよ。とりあえずあんたは、怪我を治すことだけ考えなさい。」
母は、私の手をそっと握ってくれた。
「高原くんのことも・・・まあ、時間が解決するだろうから。」
父が、いつもよりずっと小さい声で話しにくそうにつぶやいた。
「お父さん、でも・・・。」
「お前がどうしても彼と結婚したいのなら、俺はそれでも構わんよ。ただ、今は無理じゃないか。その怪我が治らない限り、何をするにも無理だ。」
「うん・・・。」
父の方にそっと視線をやると、言葉の優しさとは裏腹な、少し機嫌の悪そうな顔をしていた。
昔は、こんな表情ばかりしている父から逃げたいとばかり思っていた。
でも、今はわかる。
この表情の向こう側の愛情を、今の私は感じることができるのだ。
失くしたものはたくさんあるけれど、この愛情を失くさずに済んでよかったと心から思った。

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