■純恋愛
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終章 side trip-2
私の怪我は順調に回復し、松葉杖を使えば少しは歩けるくらいになっていた。
病院のベッドで過ごしている間に、3月も終わろうとしている。
健介が福岡へと向かう日が、近づいているのだ。

そっと、ベッドサイドのテーブルに視線を向けた。
片方だけになったピアスが、プラスティックのケースに入れられている。
怪我をしたあの日、つけていたピアスだ。
階段から落ちた衝撃で、片方はどこかへ飛んでしまったのだろう。
中途半端に残ったピアスは、そのまま自分の気持ちを表しているようにも見えた。
私はまだ、石場への愛着を捨て切れてはいないのだ。
そして、何より健介への愛情も。

皮肉なものだ。
真奈美の起こした行動は、私にいろんな意味での再確認の機会を与えてくれた。
怪我をしたことで、家族のありがたみやその愛情の暖かさを痛いほど感じた。
そして。
何より、健介に対する自分の思いの大きさも知らせてくれた。
失くしそうになって初めて知るなんて、愚かな人間の行動そのものかもしれない。
だけど、怪我をする前よりも確実に、健介に対する愛情は深くなっている。
かけがえのない人だと、心から実感するきっかけになったのだろう。
それは、多分健介も同じだ。
お互いを手放さなければならない現実を目の前にして、私たちの気持ちは静かに再燃しているのだと思う。
ふとしたときの彼の表情や、言葉でそれを感じることが多くなった。
彼はまだ、私を愛しているのだ。もしかしたら、以前よりもずっと深く、熱く。
私たちの関係を壊してしまおうとした真奈美の行動は、私たちをより強く結びつける結果になってしまった。

真奈美は、頭から血を流す私を見てかなり取り乱していたと健介から聞いた。
自分のせいで、私が死ぬかもしれないと思ったのだろう。
いや、死ねばよかったのにと思っただろうか。
だが、そうなれば、真奈美は一生犯罪者の汚名を着て生きていかねばならないのだ。
あんな衝動的な行動をとった真奈美が、そんな覚悟をしているとは考えにくい。
今だって、私のさじ加減ひとつで彼女は犯罪者になってしまう。
「突き落とされた。力いっぱい、手のひらで突き飛ばされた。」と言えばいいのだから。
あの日、あの場所で起こったことは、私と真奈美しか知らない。
怯えていればいいのに、と思う。
いつ、あの日の行動が公になるかと怯えればいいのだ。
私は死ぬまで、あの日の真実を口にすることはないだろう。
これが、今の私にできる真奈美への復讐のひとつなのだから。

私は、健介と結婚するつもりだ。
真奈美は、私に結婚をさせたくないから、幸せになって欲しくないから、こんな大怪我を負わせるほど必死になったのだ。
それならば、絶対に結婚してやろうと思う。
幸いなことに、私と健介の気持ちは以前よりも深く結びついているのだ。
お互い、こんな事態が起こったせいで口にはしないが、愛し合っていることは確かだった。

「悠子・・・どう?」
健介が、カーテンをそっと開けて私のベッドを覗きこんだ。
「あ、健介・・・。」
私は、ベッドの脇に置かれた時計にそっと目をやる。
いつも、健介は同じ時間帯にここを訪れるのだ。
夕方の明るくもなく、暗くもない時間。
「健介、ちょっと散歩に付き合ってくれない?そこに、車椅子があるから。」
「わかった。ちょっと待ってくれよ。」
健介が車椅子を取り出し、私を抱きかかえてそこに乗せてくれた。

病院の中庭で、健介はベンチに座り、私は車椅子のままで健介の隣にいた。
「もうそろそろ、福岡に行かなくちゃいけないのよね。」
「ああ。そうだな・・・。」
健介は、タバコに火を付けて煙を大きく吐き出した。
「夏に結婚式をしようと言ってたけど、ちょっと無理そうね。私も怪我をしたりで、ちょっとばたばたしちゃったし。」
「悠子・・・。」
私の言葉に、健介が少し驚いたような顔をした。
「結婚式って・・・いいのか?悠子は、それでいいのか?」
「いいのよ。私、健介のことが好き。いろいろなことがあって、しばらく健介と離れたりもしたけど・・・私にとって、健介がどれだけ大切な人なのかって、今度のことでよくわかったの。」
私は、ゆっくりと車椅子を動かして、健介の向かい側で止まる。
「悠子・・・でも、俺は・・・。」
「うちの両親は、全てを私に任せてくれると思う。今度の怪我とか、真奈美のこととか、いろんなことを整理するには少し時間が必要だと思うけど、それでも、私は健介と一緒にいたいと思ってる。」
「それは、俺も同じ気持ちだよ。だけど、悠子がそんな風に言ってくれるなんて思ってもみなかった。」
健介が、私の手をそっと握る。
「こんな怪我をさせてしまったのも、俺に原因があるんだよ。俺がいい加減なことをしたから、悠子はこんな怪我をすることになって・・・。」
「私が足を踏み外したって言ったでしょ?真奈美は関係ないのよ。」
私は、満面の笑顔で健介に言う。
「確かに、真奈美と健介のことはショックだった。でも、それとこれは関係ないのよ。」
こんなこと、嘘に決まっている。
それでも、精一杯の笑顔で言ってやりたいと思った。
あんな女は、関係ないのだと。
思い悩んだり、結婚を諦めるだけの価値などない女なのだと、笑ってやりたいと思った。

「悠子さえ、俺を許してくれるのなら、俺、福岡から何度だってこっちに帰ってくるよ。金と時間の許す限り、悠子に会いに来る。」
「うん。会いに来てよ。実家に帰るから、以前のように私の部屋で過ごすことはできなくなるけど、会いに来てよ。」
「悠子の怪我が治って、いろんなことが片付いたら、結婚してくれるか?」
健介が、私の手を握ったまま真剣な表情で言った。
「うん。結婚しよう。健介。」
私がそう答えたとたん、健介が立ち上がって私の身体をぎゅっと抱きしめた。
「悠子、ごめんな。もう、絶対に傷つけるようなことはしない。泣かせるようなことはしないから。大切にするから。」
健介の声が、耳元で響く。
懐かしいタバコの香りに包まれて、私はそっと思った。

真奈美のおかげで、健介は私に頭が上がらなくなったのだろう。
そして、私の存在の大きさを思い知ったのだ。
あの女が、私たちをより強く結びつけてくれた。
健介と別れてしまうなんて、あの女が喜ぶだけではないか。
そんなことするはずがない。
思いっきり、幸せになってやるのだ。
福岡から、あの女をあざ笑ってやる。
この肩に残る衝撃を、頭や脚に走る鈍い痛みを、私は一生忘れない。

「あ、俺もうそろそろ会社に戻らないと。」
「うん。私、もう少しここでゆっくりしたいから、健介は会社に戻って。」
「一人で病室まで帰れるか?」
「大丈夫よ。」
健介が、私の髪をそっと撫でて、優しく微笑む。
「幸せになろうな。」
「うん。幸せにしてね。」

健介の後姿を見送りながら、ポケットの中の携帯電話にそっと手を伸ばす。
メールの受信ボックスを開くと、石場からのメールがいくつか残っていた。
そっけない文面を読みながら、彼と過ごしたいくつもの甘い時間を手繰り寄せてみる。

そう簡単に、こんな男を手放せるはずがないじゃない。

私は、心の中で小さく笑う。
真奈美のおかげで、私の結婚までのタイムリミットが延びたのだ。

メモリを操作して石場の番号を探し出し、発信ボタンを押す。
数回呼び出したあと、あの甘い声が聞こえる。

「もしもし・・・悠ちゃん?」
「うん。久し振りだね。元気だった?」
「まあ、変わりないよ。」
「私、今、怪我しちゃって入院してるの。」
「え?大丈夫なの?」
「真奈美から聞いてないの?」
「あ、最近彼女とは会ってないから。」
石場の言葉に、私は笑いがこぼれそうになるのを抑えた。
「振られちゃったの?石場さん。」
「まあ、そんなところだね。」
「私、怪我をしたときにあのピアスを片方失くしちゃったみたい。もうすぐ退院だから、お祝いにまた買って欲しいな。」
「福岡には行かなくていいの?」
「少し延期になっちゃったの。だから、ね?」
「よし!退院したら、すぐにでも一緒に買いに行こうか。」

携帯電話を握り締めたまま、私は俯いてそっと微笑む。

私は、全てを失ったわけじゃない。
失ったのは、くだらない仕事と、そこで出会った女ともだち。
こんなもの失くしたところで、何も痛みはしないじゃないか。
女としての私は、何も失ってなどいない。
約束された将来も、束の間の夢を見るのにうってつけの男も。
むしろ、またこうして甘い時間を過ごす猶予期間を手に入れた。

久し振りに聞く彼の声は、以前よりも甘く心に響いた。
僅かな空白期間の間に起こった様々なドラマが、私にまた新たなときめきをくれたのか。

あと少し、私には時間があるのだ。
甘く切ないドラマは、まだ終わってはいない。
あと少し、もう少しだけ遠回りをするのだ。
学校帰りに密かに寄り道をする子供たちのように、あと少しだけの遠回り。
子供たちは、いずれ暖かい我が家へと帰っていく。
私も、甘い夢を見たあとは、優しい健介の胸へと帰るのだ。

あと少し、もう少しだけ、遠回り。

私は、石場と笑い合いながら、暗くなり始めた空を軽く仰いだ。




〔終〕

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