私の怪我は順調に回復し、松葉杖を使えば少しは歩けるくらいになっていた。 病院のベッドで過ごしている間に、3月も終わろうとしている。 健介が福岡へと向かう日が、近づいているのだ。
そっと、ベッドサイドのテーブルに視線を向けた。 片方だけになったピアスが、プラスティックのケースに入れられている。 怪我をしたあの日、つけていたピアスだ。 階段から落ちた衝撃で、片方はどこかへ飛んでしまったのだろう。 中途半端に残ったピアスは、そのまま自分の気持ちを表しているようにも見えた。 私はまだ、石場への愛着を捨て切れてはいないのだ。 そして、何より健介への愛情も。
皮肉なものだ。 真奈美の起こした行動は、私にいろんな意味での再確認の機会を与えてくれた。 怪我をしたことで、家族のありがたみやその愛情の暖かさを痛いほど感じた。 そして。 何より、健介に対する自分の思いの大きさも知らせてくれた。 失くしそうになって初めて知るなんて、愚かな人間の行動そのものかもしれない。 だけど、怪我をする前よりも確実に、健介に対する愛情は深くなっている。 かけがえのない人だと、心から実感するきっかけになったのだろう。 それは、多分健介も同じだ。 お互いを手放さなければならない現実を目の前にして、私たちの気持ちは静かに再燃しているのだと思う。 ふとしたときの彼の表情や、言葉でそれを感じることが多くなった。 彼はまだ、私を愛しているのだ。もしかしたら、以前よりもずっと深く、熱く。 私たちの関係を壊してしまおうとした真奈美の行動は、私たちをより強く結びつける結果になってしまった。
真奈美は、頭から血を流す私を見てかなり取り乱していたと健介から聞いた。 自分のせいで、私が死ぬかもしれないと思ったのだろう。 いや、死ねばよかったのにと思っただろうか。 だが、そうなれば、真奈美は一生犯罪者の汚名を着て生きていかねばならないのだ。 あんな衝動的な行動をとった真奈美が、そんな覚悟をしているとは考えにくい。 今だって、私のさじ加減ひとつで彼女は犯罪者になってしまう。 「突き落とされた。力いっぱい、手のひらで突き飛ばされた。」と言えばいいのだから。 あの日、あの場所で起こったことは、私と真奈美しか知らない。 怯えていればいいのに、と思う。 いつ、あの日の行動が公になるかと怯えればいいのだ。 私は死ぬまで、あの日の真実を口にすることはないだろう。 これが、今の私にできる真奈美への復讐のひとつなのだから。
私は、健介と結婚するつもりだ。 真奈美は、私に結婚をさせたくないから、幸せになって欲しくないから、こんな大怪我を負わせるほど必死になったのだ。 それならば、絶対に結婚してやろうと思う。 幸いなことに、私と健介の気持ちは以前よりも深く結びついているのだ。 お互い、こんな事態が起こったせいで口にはしないが、愛し合っていることは確かだった。
「悠子・・・どう?」 健介が、カーテンをそっと開けて私のベッドを覗きこんだ。 「あ、健介・・・。」 私は、ベッドの脇に置かれた時計にそっと目をやる。 いつも、健介は同じ時間帯にここを訪れるのだ。 夕方の明るくもなく、暗くもない時間。 「健介、ちょっと散歩に付き合ってくれない?そこに、車椅子があるから。」 「わかった。ちょっと待ってくれよ。」 健介が車椅子を取り出し、私を抱きかかえてそこに乗せてくれた。
病院の中庭で、健介はベンチに座り、私は車椅子のままで健介の隣にいた。 「もうそろそろ、福岡に行かなくちゃいけないのよね。」 「ああ。そうだな・・・。」 健介は、タバコに火を付けて煙を大きく吐き出した。 「夏に結婚式をしようと言ってたけど、ちょっと無理そうね。私も怪我をしたりで、ちょっとばたばたしちゃったし。」 「悠子・・・。」 私の言葉に、健介が少し驚いたような顔をした。 「結婚式って・・・いいのか?悠子は、それでいいのか?」 「いいのよ。私、健介のことが好き。いろいろなことがあって、しばらく健介と離れたりもしたけど・・・私にとって、健介がどれだけ大切な人なのかって、今度のことでよくわかったの。」 私は、ゆっくりと車椅子を動かして、健介の向かい側で止まる。 「悠子・・・でも、俺は・・・。」 「うちの両親は、全てを私に任せてくれると思う。今度の怪我とか、真奈美のこととか、いろんなことを整理するには少し時間が必要だと思うけど、それでも、私は健介と一緒にいたいと思ってる。」 「それは、俺も同じ気持ちだよ。だけど、悠子がそんな風に言ってくれるなんて思ってもみなかった。」 健介が、私の手をそっと握る。 「こんな怪我をさせてしまったのも、俺に原因があるんだよ。俺がいい加減なことをしたから、悠子はこんな怪我をすることになって・・・。」 「私が足を踏み外したって言ったでしょ?真奈美は関係ないのよ。」 私は、満面の笑顔で健介に言う。 「確かに、真奈美と健介のことはショックだった。でも、それとこれは関係ないのよ。」 こんなこと、嘘に決まっている。 それでも、精一杯の笑顔で言ってやりたいと思った。 あんな女は、関係ないのだと。 思い悩んだり、結婚を諦めるだけの価値などない女なのだと、笑ってやりたいと思った。
「悠子さえ、俺を許してくれるのなら、俺、福岡から何度だってこっちに帰ってくるよ。金と時間の許す限り、悠子に会いに来る。」 「うん。会いに来てよ。実家に帰るから、以前のように私の部屋で過ごすことはできなくなるけど、会いに来てよ。」 「悠子の怪我が治って、いろんなことが片付いたら、結婚してくれるか?」 健介が、私の手を握ったまま真剣な表情で言った。 「うん。結婚しよう。健介。」 私がそう答えたとたん、健介が立ち上がって私の身体をぎゅっと抱きしめた。 「悠子、ごめんな。もう、絶対に傷つけるようなことはしない。泣かせるようなことはしないから。大切にするから。」 健介の声が、耳元で響く。 懐かしいタバコの香りに包まれて、私はそっと思った。
真奈美のおかげで、健介は私に頭が上がらなくなったのだろう。 そして、私の存在の大きさを思い知ったのだ。 あの女が、私たちをより強く結びつけてくれた。 健介と別れてしまうなんて、あの女が喜ぶだけではないか。 そんなことするはずがない。 思いっきり、幸せになってやるのだ。 福岡から、あの女をあざ笑ってやる。 この肩に残る衝撃を、頭や脚に走る鈍い痛みを、私は一生忘れない。
「あ、俺もうそろそろ会社に戻らないと。」 「うん。私、もう少しここでゆっくりしたいから、健介は会社に戻って。」 「一人で病室まで帰れるか?」 「大丈夫よ。」 健介が、私の髪をそっと撫でて、優しく微笑む。 「幸せになろうな。」 「うん。幸せにしてね。」
健介の後姿を見送りながら、ポケットの中の携帯電話にそっと手を伸ばす。 メールの受信ボックスを開くと、石場からのメールがいくつか残っていた。 そっけない文面を読みながら、彼と過ごしたいくつもの甘い時間を手繰り寄せてみる。
そう簡単に、こんな男を手放せるはずがないじゃない。
私は、心の中で小さく笑う。 真奈美のおかげで、私の結婚までのタイムリミットが延びたのだ。
メモリを操作して石場の番号を探し出し、発信ボタンを押す。 数回呼び出したあと、あの甘い声が聞こえる。
「もしもし・・・悠ちゃん?」 「うん。久し振りだね。元気だった?」 「まあ、変わりないよ。」 「私、今、怪我しちゃって入院してるの。」 「え?大丈夫なの?」 「真奈美から聞いてないの?」 「あ、最近彼女とは会ってないから。」 石場の言葉に、私は笑いがこぼれそうになるのを抑えた。 「振られちゃったの?石場さん。」 「まあ、そんなところだね。」 「私、怪我をしたときにあのピアスを片方失くしちゃったみたい。もうすぐ退院だから、お祝いにまた買って欲しいな。」 「福岡には行かなくていいの?」 「少し延期になっちゃったの。だから、ね?」 「よし!退院したら、すぐにでも一緒に買いに行こうか。」
携帯電話を握り締めたまま、私は俯いてそっと微笑む。
私は、全てを失ったわけじゃない。 失ったのは、くだらない仕事と、そこで出会った女ともだち。 こんなもの失くしたところで、何も痛みはしないじゃないか。 女としての私は、何も失ってなどいない。 約束された将来も、束の間の夢を見るのにうってつけの男も。 むしろ、またこうして甘い時間を過ごす猶予期間を手に入れた。
久し振りに聞く彼の声は、以前よりも甘く心に響いた。 僅かな空白期間の間に起こった様々なドラマが、私にまた新たなときめきをくれたのか。
あと少し、私には時間があるのだ。 甘く切ないドラマは、まだ終わってはいない。 あと少し、もう少しだけ遠回りをするのだ。 学校帰りに密かに寄り道をする子供たちのように、あと少しだけの遠回り。 子供たちは、いずれ暖かい我が家へと帰っていく。 私も、甘い夢を見たあとは、優しい健介の胸へと帰るのだ。
あと少し、もう少しだけ、遠回り。
私は、石場と笑い合いながら、暗くなり始めた空を軽く仰いだ。
〔終〕
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